きょうの典礼は「十字架の祝日」です。私たちが教会の聖堂の中に入ると最初に目がいくのは祭壇正面に掲げられた十字架ではないでしょうか。そして、この十字架に架けられたイエス様を見つめ何人の方が慰められ、時には回心したことでしょう。私も修道院の聖堂にある十字架を見て私の心の思いを何度も伝えたことがあります。改めて十字架と向き合うことの恵みを感謝することもいいかもしれません。
きょうのみことばは、ユダヤ人の議員でファリサイ派のニコデモがイエス様を訪ねに行き質問し、その答えをイエス様が話された場面です。イエス様は、まず、ニコデモに「よくよくあなたに言っておく。人は水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3・5)と言われます。さらにきょうのみことばのすぐ前でイエス様は、「わたしが地上のことを話しても、あなた方は信じないのであれば、わたしがあなた方に、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」(ヨハネ3・12)と言われます。イエス様は、洗礼によっておん父の子となり、さらに天上のことを【信じる】ことから、永遠の救いを得ると話されます。
イエス様は、「天から下って来た者、すなわち、人の子のほかには、誰も天に昇った者はいない。」と話されます。イエス様は、ここでご自分が「天から下って来た」と言われます。このことは、ご自分が【神の子】ということ、そして、【受肉】によって人としてお生まれになられ、再び天に昇る、【昇天】することを伝えられます。イエス様は、ニコデモにまず、ご自分が誰であるか、ということを話されているのです。
次に、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子上げられなければならない。」と言われます。イエス様は、おん父が送った「火の蛇」に噛まれて死んだイスラエルの民を救うために、おん父から「火の蛇を造り、それを旗竿の上に架けよ。噛まれた者はみな、それを仰ぎ見れば、生きる」(民数記21・8)とモーセにおん父が言われたこと想起させられます。イエス様は、ご自分の【受難と十字架上での死】について話されたのでした。
イエス様は、「それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言われます。イエス様は、ご自分が十字架上で死ぬことで人々を救われると言われます。ここでイエス様は「信じる者がみな」と言われます。イエス様は、ニコデモに「あなた方は信じないのであれば」(ヨハネ3・12)で言われていますが、ここでは、【信じる者】がみな……と言われます。ここに、救われるか救われないかという大きなヒントがあるのです。
イエス様は、「人は水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3・5)で話され、【永遠の命】に入るために必要な一歩を伝えられ、それだけではなく、【信じる者】という次のステップを話されます。イエス様は、ご自分が十字架上で死ぬことで人々を贖い、さらに、ご自分を仰ぎ見る者、【信じる者】が救われ、【永遠の命】を得ると言われるのです。
イエス様は、「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」と言われます。ここでも【信じる者】と【永遠の命】という言葉が出ています。この箇所はおん父が私たちをどれほど多くの愛で包まれているのかを伝えているのではないでしょうか。私たちは、頭の中ではおん父が私たちの所に送られたこと(天から下って来た者)ということを知っていますし、そのことがおん父のアガペの愛であることも知っています。しかし、このことをもっと深く感じることとでいかに私たちが三位一体の神から愛されているのかを思うことができるのではないでしょうか。
おん父は、私たちが大好きで、心の底から愛されておられるのです。ですから、「独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」とイエス様は、言われるのです。罪深い私たちは、「本当に救われていいのだろうか」と思うことがあるのではないでしょうか。そのように悩む私たちに、イエス様は、ご自分を信じる者は【永遠の命】を得ることができるとお約束されるのです。
イエス様は、「神が御子をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためでなはなく、御子によって、この世を救われるためである」と言われます。当時の人は、「神は厳しく律法を守らない人は、救われない」と思っていたのでしょう。しかし、イエス様は、おん父は【裁く】のではなく、ご自分によって救われると言われています。
きょうのみことばは、【信じる者】、【永遠の命】という言葉が何度も出てきます。私たちは、十字架上でのイエス様のお姿を見るとき、おん父の愛、イエス様の愛を【信じる者】となって【永遠の命】を得ることができたらいいですね。