最近では、蛇をペットにかっている人もいると聞きますが、私はその人の気持ちがよく理解できません。ほとんどの人は蛇が嫌いではないでしょうか。人によっては、お茶の急須の口が自分の方に向いていると、「蛇が口を広げ、俺をにらみつけているようだ」と感じる人もいます。私もどちらかというと、蛇を見るのが嫌いなほうです。
小学生の頃、学校からの帰り道、野道を歩いていると道端をスルスルと逃げている蛇を見つけては、「ドキッ」としたことがあります。すると友達といっしょに蛇に向かって必死になって石を投げつけ、挙句の果てには蛇をつぶし、近くにある木の枝に吊るしたりもしました。残酷と言えば残酷でしたが、友達も蛇が嫌いなので、そういうことになりました。そして、そこを通る人は、そのつるし上げられた蛇を見て「ドキッ」としたり…。今さらながら蛇には申し訳なかったと思いますが、ともかく蛇を見るのが怖かったので…。
今日のみことばでイエスは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上がられなければならない」(ヨハ3・14)と民数記のことを念頭に置きながら語ります。「蛇を上げる」とはどんな意味が込められているのでしょうか。私たちが持っている蛇に対する嫌なイメージとは異なっています。民数記には、次のように記されています。
「モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民21・7~9)。
こうした箇所を読んでいくと、蛇と命とのかかわりがよく分かるし、十字架に上げられていくイエスの姿がよくイメージできるのではないでしょうか。嫌なイメージとは違って…。