「勘違い」とか「思い込み」という言葉があります。「勘違い」は「何かの原因で思い違いをすること」とあり、「思い込み」は「①事実・真実でないことを、予断や偏見で固く信じ込んで疑わなくなること。②深く心に思って、その思い通りにする。」(『新明解国語辞典』)とあります。私もよくこの「勘違い」や「思い込み」をして失敗したり、周りの人に迷惑をかけたりすることが時々あります。そのようなときに、自分で気付いたり、周りの人から指摘されたりして、軌道修正をしています。このような間違いは、しないに越したことはないのですが、うっかりしてしまうのです。
きょうのみことばは、牢の中にいる洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちをイエス様の所に遣わして「来るべき方はあなたですか」と尋ねさせる場面です。ヨハネは、メシアであるイエス様が来られる前に人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3・2)と伝え回心へと導き、「悔い改めの洗礼」を授けていました。それに加えて、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3・8)とか「善い実を結ばない木はすべて切り倒される」(マタイ3・10)と言って、人々を回心へと導き、救い主がいつ来られても善いように宣べ伝えていたのです。
きょうのみことばに出てくる弟子たちは、ヨハネの言葉に感銘を受け、従った人たちなのでしょう。彼らは、イエス様が行われている教えや奇跡などを見て、「この方がメシアなのではないだろうか」と気になっていたのでしょう。ヨハネは、彼らからイエス様のことを聞いたのかもしれませんし、彼ら以外からもイエス様の噂を耳にしたのではないでしょうか。ヨハネは、「善い実を結ばない木はすべて切り倒される」とか、回心して「善い実を結びなさい」と伝えながら、後から来られる「メシア(救い主)」が人々を天の国に導くだろう、と思っていたのでしょう。
しかし、ヨハネの耳に入るイエス様の活動は、自分が思っていた「メシア」とは違うように感じたのではないでしょうか。それで、ヨハネは、自分の弟子たちをイエス様の所に遣わして「来るべき方はあなたですか。それともほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせます。この「来るべき方」というのは、「メシア」のことなのですが、ヨハネは、イエス様が本当に「メシア」なのかと疑問を覚えたのでしょう。ヨハネにとって「メシア」とは、人々を回心させて「天の国」に導くという厳しい方と思っていたのかもしれません。
イエス様は、ご自分の所に訪ねてきたヨハネの弟子たちに「帰って、あなた方が見たり聞いたりしたことを、ヨハネに告げなさい。」と言われます。まず、イエス様は、ヨハネの弟子たちに「人々の噂ではなく、自分たちが見たこと、聞いたこと、(感じたこと)をヨハネに伝えなさい」と言われます。このことは、私たちへのメッセージかもしれません。私たちは、自分たちがイエス様に触れられて体験し、感動したことを人々に伝えることによって、周りの人にイエス様の愛を伝え、分かち合うことができるのです。
さらに、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、……貧しい人は、福音を告げられている。」と言われます。このことは、イエス様がなさっている活動ですが、この言葉は、イザヤがメシアのこととその業について語っていることのようです。イザヤ書には「『報復が、神の報いが来る。ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる。』その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない耳は開かれる。その時、足の不自由な人が鹿のように跳ね、口の聞こえない人が喜び叫ぶ」(イザヤ35・4〜6)とあります。イエス様は、イザヤ書を用いてヨハネの弟子たちにご自分が「メシア」であるということを話されたのでした。
イエス様は、「わたしにつまずかない者は幸いである」と言われます。イエス様は、ヨハネが「メシア」とは、「こうあるべきだ」と勘違いし、思い込んでいることを指摘されたのではないでしょうか。そこには、イエス様の思いではなく、【私の思い】というが強く出てきていると言ってもいいでしょう。
イエス様は、ヨハネの弟子たちが立ち去った後に、ヨハネについて「あなた方は何を見に荒れ野へ行ったのか。……では、何を見に行ったのか。預言者を見るためか。……彼は預言者に勝る者である。」と群衆に話されます。イエス様は、ヨハネが旧約聖書の中でメシアについて語った預言者に勝る、預言者であると伝えます。さらに「見よ、わたしはあなたの先に使いを遣わし、あなたの前に道を整えさせる」と言われ、ご自分が来る前におん父がヨハネを遣わして道を整えさせる、預言者であることを話されます。きょうのみことばの後に「あなた方に受け入れる気持ちがあればわかることだが、ヨハネこそ来るべきエリアである。耳のある者は聞きなさい」(マタイ11・14〜15)とイエス様が言われています。
きょうのみことばは、洗礼者ヨハネの「勘違い」、「思い込み」がもとにヨハネが「メシア」が来られることを伝える「預言者」であることを伝えているのではないでしょうか。私たちは、ヨハネのような「聖なる勘違い」から新たなイエス様との出会いができたらいいですね。
