パウロがコリントの教会に宛てた手紙は少なくとも七通あり、そのうちの六通が私たちの手元に残されていると考えられています。
『第一コリント』5章9節に、「私は以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きました」とパウロは書いていますが、ここでパウロが言及している「手紙」は、当然『第一コリント』以前に書かれた手紙です。この手紙は残念ながら現存していません。
次に、新約聖書にある『第二コリント』は、もともとはパウロの五通の手紙から構成されており、後代の編集作業によって、現在の一通の手紙、つまり『第二コリント』が作られたと考えられています。この編集作業の跡を確認することは可能です。『第二コリント』2章13節には「私は兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発した」とあり、現在の聖書では、この箇所には14節の「神に感謝します」が続きます。しかし、パウロが書いた本来の文章では、7章5節の、「マケドニア州に着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によって私たちを慰めてくださいました」が続いていたと考えられます。この方が内容に一貫性があります。ところが、パウロの多くの手紙を一通の手紙に編集する際、この手紙は二分され、そこに他の手紙が挿入されました。
一般に、『第二コリント』は次の五通の手紙から構成されていると考えられます。
Aの手紙 『第二コリント』2章14節〜7章4節
Bの手紙 『第二コリント』10章〜13章
Cの手紙 『第二コリント』1章1節〜2章13節、7章5節〜16節
Dの手紙 『第二コリント』8章
Eの手紙 『第二コリント』9章
A・B・Cの三通の手紙は、この順序で執筆されたと考えられています。
D・Eの二通の手紙は、それぞれ独立した献金に関する手紙ですが、執筆の時期は明確ではありません。
以上のことから、パウロはコリントの信徒たちに宛てて、現存していない手紙も含めると、少なくとも七通の手紙を書き送ったと考えられています。
「どうしてパウロの手紙をそのまま大切に保管しないで、編集したりしたのだろう?」との疑問は当然です。現代であれは、このような編集は言語道断です。しかし、当時の編集者たちは、善意をもって編集作業に着手したに違いありません。
回答者=鈴木信一神父