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これってどんな種?

隣人となるという種 年間第15主日(ルカ10・25~37)

 「隣人」という言葉の意味は、「隣近所に住んでいる何らかの関わりのある人」(『新明解国語辞典』)とあり、さらに「隣」とは「最も近い両横」(『新明解国語辞典』)とあります。あらためて「隣人」を意識するとき、「【最も近く】にいて【何らかの関係】がある人」ということがわかるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、「善きサマリア人」の喩え話の場面です。この箇所の前には、宣教に派遣された「72人弟子たち」の報告を聞かれたイエス様がおん父への賛美の祈りを捧げられています。そして、きょうのみことばは、「すると、1人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた」という言葉から始まっています。いつの時代にも場を読めない人がいるもので、イエス様が弟子たちの報告を聞いて感謝のうちに良い雰囲気の場に「【すると】、1人の律法の専門家」がイエス様を試みるために質問するのです。

 もし、今の私たちでしたら、「別にその質問は、今ではなくても」と思うのではないでしょうか。彼は、弟子たちが羨ましかったのかもしれません。彼は派遣された72人の弟子たちよりも、「自分の方が律法に詳しいし、宣教に派遣されたとしても彼らよりも良い成果を出すことができる」と思っていたのかもしれません。それで、何とかしてイエス様の注意を引こうと思ったのではないでしょうか。彼の質問は、律法学者の中でも一つの話題になっていたようで、ルカ福音書以外の福音書でも同じような質問をイエス様にしている場面があります。

 みことばでは、「イエスを試みようとして尋ねた」とありますから、あらかじめ彼の中では、答えを出していたのかもしれません。彼は、イエス様に「先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか」と尋ねます。イエス様は、彼の質問に「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか」と言われます。イエス様は、彼が律法の専門家であることをご存知でしたので、まず、彼と同じ目線に立たれ「律法には……」と質問されたのでしょう。

 彼は、ユダヤ人なら誰でも知っている「心を尽くし、……あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ」と答えます。イエス様は、彼の答えを聞かれ「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば生きるであろう」と言われます。イエス様は、彼の答えに対して肯定され、さらに「それを実行しなさい」と言われます。もしかしたら、彼はこの律法の箇所を理解していたことでしょうが、頭の中の理解に留まって、本当の意味での【実行】していなかったかもしれません。

 彼は、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは誰ですか」とイエス様に尋ねます。「自分を正当化しよう」とありますように、彼の中では、「そのようなことは、知っているし、毎日行っている」と思ったのでしょう。それで、彼は、あえて自分を正当化しようとして「わたしの隣人とは誰ですか」と質問したのでしょう。ただ、彼らユダヤ人の中での【隣人】というのは、ユダヤ人のみで異邦人は含まれていませんでした。ですから、イエス様は、「【あなたは】どう読んでいるのか」という質問をされたのです。

 イエス様は、彼の質問に答えるように「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった……」と譬え話を始められます。この強盗に遭った人は、きっと怖かったでしょうし、「自分は強盗に遭い、もうすぐ死んでしまうかもしれない、誰か助けてくれないかな」と心の中で思っていたことでしょう。

 そんな中、たまたま祭司とレビ人が通りかかり、彼を見ると道の向こう側を通って先に進んでいきます。強盗に遭った人は、ユダヤ人だったでしょうし、祭司のレビ人も律法に精通した人なので、「隣人を自分自身のように愛する」という「律法」のことを知っていたはずなので助けてもらえると思ったでしょうが、彼らには道の向こう側を通っていかれ助けてもらえませんでした。

 しかし、彼の意識が遠ざかる中、異邦人であるサマリア人が彼に気づき、「憐れに思い、近寄って、……」と介抱されたのです。それだけではなく、サマリア人は、自分のろばに彼を乗せて宿屋に連れていき、一晩中その人を介抱したうえ、2デナリオン銀貨を渡して足らない分を帰りに支払うことを宿屋の主人に伝えたのです。このサマリア人の姿は、「憐れに思い、近寄って、介抱する」というイエス様のお姿でした。律法の専門家は、イエス様の「強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか」という質問に「憐れみを施した人です」と答えます。イエス様が言われる【隣人】は、自分が【隣人】を探すのではなく「相手がその人に【対して】【隣人】だと思うか」ということなのです。

 私たちは、「【私】の隣人は誰だろう」と思ってしまいがちですが、イエス様が言われる「あなたも同じようにしなさい」ということを実行することで、私がその人の【隣人】となることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 隣人となるという種 年間第15主日(ルカ10・25~37)

  2. 宣教の喜びという種 年間第14主日(ルカ10・1〜12、17〜20)

  3. 天の国の鍵という種 聖ペトロ 聖パウロ使徒の祭日(マタイ16・13〜19)

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