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これってどんな種?

主に信頼するという種 年間第33主日(ルカ21・5〜19)

 「信頼」と「信用」という言葉がありますが、この違いはどのようなことでしょうか。まず「信頼」は「その人やものが、疑う余地がなく、いざという時に頼ることができると信じて、全面的に依存しようとする気持ちをいだくこと。また、その気持」(『新明解国語辞典』)とあり、「信用」は「誤りがないと信じて、その人の言をそのまま受け入れたり事の処理をすべて任せたりしようとする気持ちをいだくこと」(『新明解国語辞典』)とあります。この二つの共通する点は「信じる」ということにあるようですが、「信頼」の方は人生を歩む中で長く変わらない、何か大切なものという気持ちになるような気がいたします。私たちが生きる中で本当に【信頼】する人は、何人いるのか振り返ってみるのもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が「エルサレムの神殿が崩壊する」ということを予告される場面です。みことばは「ある人たちが、美しい石と奉納物で飾られた神殿について話し合っていたとき、イエスは仰せになった。『あなた方が目にしているこれらのものが破壊され、積み上げられた石が一つも残らない日が来る』」という言葉で始まっています。

 「エルサレムの神殿」は、ユダヤ人たちの信仰の拠り所であり、おん父への祈りの場として大切な所だったのです。イエス様は、ユダヤ人に対して「それが崩壊される日が来る」と言われておられるのです。今の私たちにとっては、ヴァチカンにある「システィナ礼拝堂が崩壊する」と言われたのと同じような気持ちになるのではないでしょうか。

 イエス様の言葉を聞いた人たちは、不安になり「先生、それはいつでしょうか。それが起こる時には、どんな徴があるのでしょう」と尋ねます。彼らは、そのような事が起こることが信じられないと思ったかもしれませんし、起こるとしたら何かしらの「徴」があるのか思ったのでしょう。イエス様は、彼らの質問に対して「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を騙り……」と言われて、「偽預言者」が出てきたり、戦争や反乱が起こったりすると言われます。イエス様は、何か有事が起こりそうな時には、人々を惑わし、扇動する人が出てくると言われているのでしょう。このことは、私たちの歴史を振り返ってみても同じ事が起こっていますし、今の時代でも起こっています。彼らは、「自分が神だ」とは言いませんが、あたかも「自分が神」であるように振る舞っています。

 イエス様は、偽預言者や戦争、反乱があったとしても、「惑わされない気をつけなさい」とか「ついて行ってはならない」とか「うろたえてはならない」と警告されます。イエス様は、人々に「何が真実であるか」という「【今】を見つめる目を持ちなさい」と言われているのでしょう。私たちは、慌てたり、惑わされたりすると、普段起こさないようなミスや、人に対して言わなくていいことを言ってしまうことがあります。イエス様は、私たちに「落ち着いて、何が大切なのか、今何をすべきなのかを考え、行動しなさい」と言われているではないでしょうか。

 イエス様は、「しかし、すぐに終わりが来るわけでない」と言われます。このことは、「偽預言者や戦争が起こったとしてもまだ、エルサレムの神殿は崩壊しない」という意味のようです。ただ、イエス様は、このようなことが起こっている中で、準備することを促しているのかもしれません。さらにイエス様は「民は民に、……恐ろしい現象が生じ、天には大きな徴が現れる」と言われます。イエス様は、どのような【徴】が現れるかはっきりとは言われませんが、私たちに「その【徴】を見落とさないように」と言われているのかもしれません。

 イエス様は、「しかし、これらすべてのことに先立って、人々はあなた方に手を下して迫害し、会堂や牢獄に引き渡し、わたしの名のために……わたしがあなた方に授けるからである」と言われます。イエス様は、私たちが宣教の中で何かを証する時には、私たちの頭で何かを考えるのではなく、イエス様が【言葉と知恵を授ける】と言われているようです。

 さらに、「あなた方は、親、兄弟、親族、……すべての人に憎まれる。」と言われます。イエス様は、政治的な圧力だけでなく、自分の身近な人からも憎まれると言われます。このことは、私たちにとってかなりのショックを受けることになるとともに、私たちの信仰が試され、養われることでしょう。イエス様は、「……耐え忍ぶことによって、自分の命を勝ち取りなさい」と言われます。パウロは、「苦難は忍耐を生み、忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。」(ローマ5・3〜4)と言っています。

 私たちは、人生の歩みの中でさまざまな病気や事故、精神的、肉体的なストレス、家族や友人とのトラブルなどなの困難に遭うことでしょう。そのような時にこそ三位一体の神に信頼しながら歩んでゆくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 主に信頼するという種 年間第33主日(ルカ21・5〜19)

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