書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

愛のきずなという種 聖家族(マタイ2・13〜15、19〜23)

 きょうの典礼は、『聖家族の祝日』です。絵画や彫刻などで「聖家族」を題材にした作品がたくさんあります。それを観るととても安らかな気持ちになって心が和んでしまいます。司祭が唱える集会祈願には「恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。」とあります。聖家族の絵画を観て心が和み平安な気持ちになるのは、それぞれが【愛のきずな】によって結ばれているからではないでしょうか。私たちは、おん父から与えられた一番身近な「家族」を大切にして互いの【愛のきずな】を深めながら歩むことができたらいいですね。

 きょうのみことばは、主の使いがヨセフ様の夢に現れて「エジプトに逃げよ」と言われる場面です。みことばは「さて、博士たちが立ち去ると、夢の中で主の使いがヨセフに現れて言った」というみ言葉から始まっています。この中の「博士たち」というというのは、ヘロデの所に「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにおられますか」と尋ねた東方の博士たちです。ヘロデは、彼らに「行って、その幼子を丹念に探し、見つけたら、わたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行きたいから」(マタイ2・8)と言います。しかし、彼らは、夢の中でヘロデのもとに戻らないようにとのお告げがあったので、他の道を通って自分たちの国へ帰っていきます。

 博士たちは、幼子のイエス様を訪問し、ヨセフ様やマリア様といろいろなことを話し、和やかで平安な時間を過ごしたことでしょう。きっと、幼子イエス様も手足を動かしたり、笑顔を見せたりして博士たちの訪問を喜ばれたのではないでしょうか。そのような幸せな時を過ごしたその夜に主の使いは、ヨセフ様の夢の中に現れて「起きよ。幼子とその母を連れて、エジプトに逃げよ。そして、わたしが告げるまで、そこに留まれ。ヘロデが幼子を探し出して、殺そうとしている」と告げます。

 ヨセフ様は、イエス様がお生まれになられる前にも、主の使いからのお告げを夢の中で受けています(マタイ1・18〜21参照)。今度は、同じく主の使いが夢の中に現れ「起きよ。幼子とその母を連れて、エジプトに逃げよ。」と言われます。ヨセフ様は、眠りにつかれて間も無く、主の使いのお告げによって「起きよ」と告げられるのです。ヨセフ様は、2度目の主の使いのお告げですから、今度は何事でしょうか、と思われたことでしょう。主の使いのお告げの内容は、「幼子とその母を連れて、エジプトに逃げよ」ということでした。ヨセフ様は、なぜ、エジプトに逃げなければならなければいけないのか。なぜ、ヘロデが幼子を探し出して、殺そうとしているのかと不思議でしょうがなかったことでしょう。

 ヨセフ様は、博士たちとヘロデ王とのやりとりをご存じなかったでしょうから、ヘロデが生まれたばかりの幼子イエスを殺そうと企んでいるとは知らなかったことでしょう。しかし、ヨセフ様は、主の使いのお告げを受けて、「起きて」夜のうちに幼子とその母とを連れてエジプトに逃げます。ヨセフ様は、産後のマリア様と幼子イエス様を連れてエジプトに逃れるのですから不安を感じながら、お二人を気遣いながら旅を続けられます。

 マリア様は、ヨセフ様から主の使いからのお告げのことを聞かれたのではないでしょうか。マリア様ご自身も主の使いからのお告げを受けられたことがあるので、忠実に夫であるヨセフ様に従って幼子イエス様を連れて旅を続けられます。幼子イエス様は、ヨセフ様とマリア様に守られてエジプトに行かれます。イエス様は、神の子なのですが、両親の愛に守られ育てられ、ご自分をヨセフ様とマリア様にお委ねになられます。

 再び主の使いは、ヨセフの夢に現れ「起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に行け。幼子の命を狙っていた人々は死んでしまった」と告げます。ヨセフ様は、イスラエルからエジプトに逃げたように、今度もマリア様と幼子イエス様を連れてイスラエルに帰っていきます。しかし、ヨセフ様は、アルケラオが父の跡をついでユダヤを治めていると聞いて、そこに行くのを恐れます。

 ヨセフ様は、家族のことを思われ主の使いのお告げのままに行動されます。それでも、ご自分の「恐れ」も感じられたのです。ここに、人間的な思いとおん父からのご計画との微妙な違いがあるのではないでしょうか。主の使いは、その小さな違いを再び修正するように、ヨセフ様の夢に現れガリラヤに行くように告げます。

 ヨセフ様は、マリア様と幼子イエス様を養い、守るために主の使いのお告げに従われます。マリア様とイエス様は、そのようなヨセフ様について行かれます。そこには、それぞれの【愛のきずな】があったからでしょう。さらに家族はおん父の愛によって守られているのです。私たちの家族は、この聖家族と同じおん父の愛によって養われているのです。私たちは、このことに感謝と信頼のうちに歩むことができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 愛のきずなという種 聖家族(マタイ2・13〜15、19〜23)

  2. 喜びを伝えるという種 待降節第4主日(マタイ1・18〜24)

  3. 聖なる勘違いという種 待降節第3主日(マタイ11・2〜11)

RELATED

PAGE TOP