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これってどんな種?

準備するという種 年間第32主日(マタイ25・1〜13)

 「前もって準備をしておけば、いざということが起こっても心配ない」ということを意味する【備えあれば憂いなし】ということわざがあります。日頃からこのように準備をしておく習慣を持つようにしたいものです。

 きょうのみことばは、「花婿を出迎える10人のおとめ」の喩え話です。マタイ福音書の24 章からは、「神殿の崩壊の予告」や「メシアの再臨」について書かれてあり、【終末】についてイエス様が語られています。きょうのみことばの最後には、「だから、目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからである」という言葉がありますが、24章にも「その日、その時は、誰も知らない。天の使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」(マタイ24・36)、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、主が来られるか、あなた方は知らないからである」(マタイ24・42)、「その僕の主人は、思いがけない日、予期しない時に帰ってきて、彼らをきびしく罰し、偽善者と同じ目に遭わせる。そこには嘆きと歯ぎしりがある」(マタイ24・51)とあります。

 それから、きょうのみことばに入るのですが、イエス様は、「そこで、天の国は、明かりを手にして花婿を出迎える10人のおとめに喩えられる」と言われ、「天の国を『婚宴』」として喩えられます。当時の婚宴は誰もが花婿と花嫁を祝うことができるように夕方から始まっていたようです。ですから、このおとめたちは、花婿を迎えるために集まった人たちで【明かりを手にしていた】のです。

 イエス様が、「その中の5人は愚かで、5人は賢かった」と言われますように、花婿を待つおとめたちは、最初から【愚かなおとめ】と【賢いおとめ】との2つに分かれています。この【賢い】というのは、私たちが思い描く、「知識が優れている」という人のことではなく、「主を畏れることは知恵の初めであり、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9・10)とありますし「知恵は神の力の息吹」(知恵の書7・25)とありますように、おん父に対する私たちの愛、神的な【知恵】と言っていいでしょう。ですから、この【賢いおとめ】は、これから迎える【花婿】である【イエス様】を大切に思い、愛していたことがわかります。

 イエス様は、この【愚かなおとめ】たちと【賢いおとめ】たちの違いとして「愚かなおとめたちは、明かりは手にしていたが油を用意していなかった」と言われ、「賢いおとめたちは、明かりと一緒に、器に入れた油を持っていた」と言われます。この「油を準備しているか、準備していないか」ということが、彼女たちが分かれる大きな違いがあったのです。イエス様は、「花婿の来るのが遅れたので、みな眠くなり、そのまま寝込んでしまった」と言われます。ですから、「寝込む」というのは、別に悪いことではなかったのです。

 亡くなられた森司教様が「祈りは、神様の前でボーッとすることです。だから、眠たくなって寝てしまってもいいのです」と言われていたのを思い出します。この10人のおとめたちは、イエス様のところに集まった人々のこととして喩えられているようです。

 さて、彼女たちは、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」という声で目を覚まし、それぞれ明かりを用意します。しかし、愚かなおとめたちは自分たちの明かりが消えかかっているのに気づき、「油を分けて下さい。明かりが消えてしまいますので」と賢いおとめたちに言います。私たちは、自動車で遠出をする時には、燃料のメータを見て十分走れるかを確認して出発します。もし、目的地に向かうことができないようでしたら、出発前に給油するか、行きながらガソリンスタンドを探します。燃料のメータに記される「給油マーク」が点灯しながらの運転は、自動車がいつ止まるかと思い気が気ではありません。きっと、愚かなおとめたちも消えかかった明かりを見て、同じように思ったのではないでしょうか。

 賢いおとめたちは、「あなた方に分けてあげるほど、油はありません。それよりも、店に行って、自分の分を買っておいでなさい」と答えます。この賢いおとめたちは、愚かなおとめたちに対して、意地悪を言ったのではありませんでした。彼女たちにとって、【油】は、花婿である【イエス様】に対する気持ちであり、思いであり、【愛】だったからです。愚かなおとめたちは、この言葉を聞いて初めて自分たちのイエス様への【愛の欠如】に気付いたのです。それで、彼女たちは、店に油を買いに行きますが、その間に花婿が到着し、「戸は閉められます」。愚かなおとめたちは、戻って「主よ、主よ、どうぞ開けてくさい」と言います。しかし、主人は「あなた方によく言っておく。わたしはあなた方を知らない」と答えます。この【婚宴】は、メシアの再臨を祝う【宴】です。その【婚宴】に相応しい思いで準備をしていることが大切なのです。

 イエス様は、「だから、目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからである」と言われます。この【目を覚ます】は先の【寝込む】ということではなく、私たちの心をイエス様に【向けておく】ということです。私たちは、イエス様と共に【天の国の婚宴】を祝うことができるようにいつも心の準備をすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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