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これってどんな種?

イエス様の軛という種 年間第14主日(マタイ11・25〜30)

 今の社会は、「ストレス社会」と言ってもいいのかも知れません。知らず知らずのうちにストレスが溜まり、心身の病気にかかってしまう人がいます。たまには、「ガス抜き」が必要で、自分にあった何かの方法で、ストレスを発散するといいのかも知れません。きょうのみことばは、そのような私たちへの「良い便り」となるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちと共に「町々で教え、福音を宣べ伝えられた」(マタイ11・1)後におん父に讃美を捧げる場面です。私たちが讃美する場合は、何かを行った時の「実り」に対して感謝する時に行います。イエス様は、福音を宣べ伝えるために「コラジンやベトサイダ、そしてカファルナウム」というガリラヤ湖の北側で、比較的交通の便もよく開かれた地方で福音を伝え、多くの奇跡を行われたにも関わらず、彼らはイエス様の教えや奇跡を見ても【悔い改め】ようとはしませんでした(マタイ11・20〜24)。

 イエス様は、一見失敗のように見える彼らへの宣教の結果を「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」とおん父に対して【讃美】を捧げられます。なぜイエス様はみことばを宣べ伝えたのにも関わらず受け入れない人々がいるのにおん父に対して「あなたをほめたたえます」と言われたのでしょう。それは「あなたは、これらのことを知恵ある者や賢い者に隠し、小さい者に現してくださいました。そうです。父よ、これはあなたのみ心でした」と言われるイエス様の言葉にヒントがあるようです。

 イエス様が言われる「知恵ある者や賢い者」とは、「自分たちが【知恵ある者や賢い者】」と思っている人たちでした。残念なことに彼らの多くは、「私たちは律法を守っている」と自負しているユダヤ人たち、特に律法学者やファリサイ派の人々でした。彼らは、自分たちが「知恵ある者や賢い者」であると思っているため、イエス様の教えや奇跡に対して「ぼくたちが笛を吹いたのに、君たちは踊ってくれなかった。弔い歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」(マタイ11・17)と言われたように、イエス様の教えを聞こうとも信じようともしなかったのです。

 一方「小さい者」とは、「徴税人や罪人」のように、弱い立場にある人、律法を守ることができない人のことをと言われているようで、彼らは、律法学者やファリサイ派の人々から「重荷を束ねて人の肩に担わせるが、自分はそれを動かすために指一本触れようとしない」(マタイ23・4)とありますように、いつもさまざまな【重荷】を負わされ、虐げられ、苦しんでいたのでした。ですから、この「小さい者」と言われる人々は、イエス様に頼る他に居場所はなかったのでした。イエス様がおん父に対して「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と讃美を捧げられたのは、このように【小さい者】を救うというおん父の【み心】が実現したからではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分についてきた人々のことを「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が現そうと望む者のほかに、父を知る者はいません」と言われます。この言葉は、私たちに一人ひとりに対して言われる言葉でないでしょうか。私たちは、洗礼の恵みを受け「子が現そうと望む者」となりましたし、イエス様が、「すべてのものは、父からわたしに任されているのです」と言われるように、【おん父を知る】という恵みが与えられているのです。

 さて、イエス様は「労苦し、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われます。これを聞いた「重荷を負っている人々」はどれほど安心し、慰められたことでしょう。私たちの日常の生活では、【しなければならないこと】で一杯ですし、いくらそれらをこなしても終わらず、さらに、次々と増えていくのではないでしょうか。このように考えただけで疲れてしまいます。イエス様は、そんな私たちに「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われています。

 さらに、イエス様は、「わたしの軛を受け入れ、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は魂の安らぎを見出す。」と言われます。イエス様が言われる「わたしの軛を受け入れる」とは、自我を捨てることではないでしょうか。「私がしなければ」「私しかできない」と思って一生懸命に働いている間は、ますます重荷が増してきますが、「私の力では限界です。イエス様どうぞ助けてくださいお願いします」と謙遜に祈って「軛」を【受け入れる】ことによって「魂の安らぎを見出す」ことができるのではないでしょうか。

 イエス様は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われます。イエス様は、私たちが自分の力に頼らずに、イエス様に委ねた時、イエス様は私たちの代わりにその【重荷】を担ってくださるのです。それで、イエス様は「わたしの荷は軽いからである」と言われているのではないでしょうか。

 私たちは、自分が【重荷】を負っていることに気づき、イエス様のもとに歩みよって、イエス様の【軛】を受け入れることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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