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これってどんな種?

新しい掟という種 復活節第5主日(ヨハネ13・31〜35)

 漢字の「愛」は、「受」の中に「心」が入っています。私たちは、イエス様の「心」を受けながら、またその「心」を周りの人に与えて行くことでイエス様の「愛」の輪が広がって行くのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が私たちに【新しい掟】をくださる場面です。イエス様は、一緒に福音を宣べ伝えた弟子たちと最後の晩餐をしています。しかし、弟子たちの一人イスカリオテのユダが裏切ってユダヤ人たちに引き渡そうと計画を立てていました。きょうのみことばはそのユダが弟子たちの中から出て行った後の場面から始まります。イエス様は、ペトロやヨハネと同じように、ユダを弟子としてお選びになられたのでした。イエス様は、おん父のご計画を成就するためにご自分を裏切るかもしれないユダを前もって弟子として選ばれていたのかもしれませ。

 イエス様は、ユダが出て行った後に、「今こそ、人の子が栄光を受けた。」と話し始められます。きょうのみことばの中には、【栄光】をいう言葉が何度も繰り返し出てきます。イエス様にとっての栄光は、十字架上での死と復活を意味しているようです。この箇所以外にもヨハネ福音書には「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12・23)とか「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、このために、この時のためにこそわたしは来たのである。父よ、み名の栄光を現してください。すると、天から声がした、「わたしはすでに栄光を現したが再び栄光をあらわそう」(ヨハネ12・27〜28)というように【栄光】という言葉が出てきています。

 おん父は、ご自分の子を罪人である私たちを救うために、【人】として遣わすことによって最初の【栄光】を現し、さらに【十字架上の死と復活】を通して第二の【栄光】をくださったのです。おん父の【アガペの愛】は、ご自分の子によって私たちの罪を贖ってくださるほど深いものですし、人祖アダムとエバが楽園を追放された時から今に至るまで続いていると言ってもいいでしょう。

 「栄光は父と子と聖霊に 初めのように今もいつも世々に アーメン」と私たちが唱えている『栄唱』は、【栄光】が三位一体の神を通して「世の初めから、今、そして未来」へと【永遠】に続くという祈りです。この祈りをゆっくりと味合う時、三位一体の神の溢れるほどの【愛】を感じることでしょう。

 イエス様は、「神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかもすぐに栄光をお与になる」と言われます。おん父は、イエス様の【死と復活】を通して、ご自身も一緒に苦しまれるとともに、最後までご自分に従順であったイエス様の【愛】という【栄光】をお受けになられたのです。ここにおん父とイエス様の【愛】の応答があるのではないでしょうか。私たちは、今、このおん父とイエス様の【愛】によって生かされているとともに、イエス様を信じている私たちも三位一体の神と共にイエス様の【死と復活】を与っていると言ってもいいでしょう。

 イエス様は、「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と言われます。「互いに愛し合う」という掟は、「お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である」(レビ記19・18)とありますので、イエス様が言われる前から行われていました。しかし、イエス様が言われる【新しい掟】は、「【わたしがあなた方を愛したように】、あなた方も互いに愛し合いなさい」という一文が入っているのです。

 私たちは、どうして自己中心的な【愛】を求め、また相手に対しても【愛】を与えようとしてしまいます。そのような時の【愛】は、「私がこんなに愛しているのに、なぜ、あなたは応えてくれないの」という失望や怒りが起こってしまうことがあります。パウロは「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は妬まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えない。……愛はすべてを望み、すべてを耐え忍ぶ」(1コリント13・4〜7)と伝えています。繰り返しますが、イエス様の【愛】は、【死と復活】によって罪人である私たちを贖ってくださるほどの【アガペの愛】なのです。

 イエス様は、「互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなた方がわたしの弟子であることを、認めるようになる」と言われます。私たちは、イエス様の【アガペの愛】を頂いて、今、生かされています。私たちは、イエス様が私たち一人ひとりに与えてくださった【新しい掟】を行うことによって、キリスト者として福音宣教を行っているのです。それは、私たちが何か偉大なことをするということではありません。ただ、イエス様がなさったように周りの人を慈しみ、親切な言葉、行いをすること、時には、苦手な人と出会うかもしれませんがそれでもその人を愛すればいいのではないでしょうか。

 私たちは、イエス様の弟子として、イエス様から頂いた【新しい掟】を行い続けることが出来たらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  2. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  3. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

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