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これってどんな種?

宝を蓄えるという種 年間第18主日(ルカ12・13〜21)

 「欲」という言葉があります。例えば、「食欲」や「意欲」など「欲」自体は、良くもなく悪くもないものです。しかし、度が過ぎて食べ過ぎると、肥満になって体を壊してしまいます。また、意欲だけが進むと周りが見えなくなって傲慢に傾く恐れがあります。このようにならないために、「ほどよく」という便利な言葉がありますし、中国の故事に「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉もあります。私たちは、この「欲」に対して、「ほど欲」が良いのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が「貪欲への用心」と「愚かな金持ち」の譬え話を人々に話をされる場面です。きょうのみことばは、「ところで、群衆の1人がイエスに言った、『先生、遺産をわたしと分けるよう、兄弟におしゃってください』」というところから始まっています。イエス様は、それまで、群衆に「誰を恐れるべきか、あなた方に教えよう。殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさい」(ルカ12・5)とか、「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」(ルカ12・12)というような人が生きるなかで大切な教えを話されていました。しかし、そのような素晴らしい話をされているにも関わらず、この人は、自分の遺産についてイエス様の所に相談に来たのです。

 みことばの始めに「ところで」と書かれてあるのも、この人が周りの空気を読めない、利己的な人ということを表しているようです。イエス様は、彼の相談に対して「友よ、誰が……」と愛情を込めて話されます。イエス様は、彼の相談に返事をする代わりに、「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。人の命は、財産の多さによるものではないからである」と人々に向かって話されます。もしかしたら、この人は、それなりに生活できていた人なのかもしれません。それでも、自分だけが遺産を貰えないことに不満を持っていたのでしょう。イエス様は、この人が【貪欲さ】に走らないように注意を促したのではないでしょうか。

 この【貪欲】という言葉は、「欲望をどこまでも追求し、満足することを知らない様子」(『新明解国語辞典』)という意味ですから、一度この貪欲さに陥ってしまうとキリがなく自分を滅ぼしてしまう危険性があるのです。パウロは「この地上に属する部分を死なせなさい。みだらなこと、……それに貪欲です。貪欲は偶像礼拝と同じことです。」(コロサイ3・5)と伝えています。ユダヤ人にとって「偶像礼拝」は最も忌み嫌うべきものであり、恥ずべきことだったのです。パウロは、そのことを例に出して「貪欲は偶像礼拝と同じこと」と伝えて人々に注意を与えたのです。

 イエス様は、ややもすると人々が陥りやすいこの【貪欲さ】への傾きから守るように「【あらゆる】貪欲に気をつけ、用心しなさい」と言われているのでしょう。ですから、イエス様の所に相談に来た人は、金銭的なものだけではなく、他のものに対しても【欲】への傾きがあったのかもしれません。イエス様は、「人の命は、財産の多さによるものではないからである」と言われます。このことは、私たち一人ひとりに対しても言われていることなのではないでしょうか。

 続けてイエス様は、「ある金持ちの畑が豊かに実った。その人は心の中で、『作物をしまっておく場所がないが、どうしようか』と思い巡らし、こう言った、『そうだ、倉を壊して、もっと大きいものを建て、……』」と譬えを話し始められます。イエス様が話された人は、「ある金持ちの」とありますように、もうすでに【金持ち】ですし、たまたまその年も豊作となりさらに財産が増えたのです。彼は、今ある財産に満足できず、さらに大きな倉を建てようとしています。

 彼は、「自分自身に言おう。お前は、……食べたり飲んだりして楽しめ」と思い巡らします。この金持ちは、豊作で採れた財産を収めるためにどうすればよいのか心の中で思い巡らしている最中なのです。それでも、神から「愚か者、今夜、お前の命は取り上げられる。」と言われるのです。神はなぜこの人に対して【愚か者】と言われたのでしょう。この金持ちは、別に悪い人ではありません。ただ、その才能も神から与えられていたということを忘れていたのです。さらに、その財産を自分のためだけに使おうとしていたことに対して神は、【愚か者】と言われたのでした。

 イエス様は、「自分のために宝を蓄えても、神の前に豊かにならない者は、このようになる」と言われます。では、どのようにしたら【神の前に豊かになる】のでしょうか。イエス様は、ある大金持ちに「あなたに欠けていることがまだある。持ち物をことごとく売り、貧しい人に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を蓄えることになる。」(ルカ18・22)と言われています。

 私たちは、おん父から計り知れないほどの豊かな【愛】という財産をいただいています。この豊かな【愛】を自分のためだけに使うのはもったいないことですし、おん父もそれを望んではいません。私たちは、日々の生活の中で頂いた【財産】を周りと分かち合っておん父の前に宝を蓄えることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宝を蓄えるという種 年間第18主日(ルカ12・13〜21)

  2. 執拗に祈るという種 年間第17主日(ルカ11・1〜13)

  3. 隣人となるという種 年間第15主日(ルカ10・25~37)

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