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そよかぜカレンダー

主の降誕前の8日間

 待降節は主の到来を待つ期間です。主イエスの到来が間近に迫っているので、その喜びに満たされながら待ち望むのです。しかし、わたしたちが待ち望んでやまない主の到来とは、二重の意味での到来です。一つは、2000年前に実現した主イエスの誕生です。もう一つは、終わりのときに実現する主イエスの再臨です。待降節のうち、前半は、救いの完成をもたらすイエスの再臨に注意が向けられます。後半、特に主の降誕前の8日間(12月17日~24日)は人となられるイエスを待つことにすべてが集中していきます。

 福音朗読も、待降節の前半ではイエス・キリストの公生活中のわざや教えを記した個所が選ばれて朗読されるのに対して、降誕前の8日間にはマタイ福音書1章とルカ福音書1章が8日間に分けられて朗読されます。

 今回は、その中から12月17日に朗読される、マタイ福音書1章1-16節のイエス・キリストの系図を取り上げたいと思います。この系図は、イスラエル民族の祖とされるアブラハムから始められ、ダビデ王に至り、そしてバビロン捕囚の時期を経てヨセフに至り、ヨセフの妻マリアからイエスが生まれたことを記して結ばれています。全体をとおして「……(=父親)は……(=子)をもうけた」(フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』では「……(=父親)の子は……(=子)」と訳出)という表現が用いられていますが、最後の部分、すなわちヨセフとイエスの関係だけは、異なる表現で記されています。それは、18節以降に記される、イエスが特別な方法で、つまり聖霊によってマリアの胎内に宿ったという神秘を示唆しています。それでも、ヨセフの系図が語られるのは、ヨセフがマリアを妻として迎え入れたことにより、イエスは真の意味でヨセフの家の後継者とされたからです。イエスは、祖先からヨセフに伝えられたすべてを受け継ぐのです。

 さて、この系図は、ルカ福音書に記されているイエスの系図とはずいぶん異なっています。登場する人名が一致しません。ここからも分かるとおり、マタイ福音書は、正確にイエスの系図をたどろうとしたのではないようです。むしろ、系図をとおしてイエスの神秘を説明しようとしたのでしょう(「系図」と訳されている言葉には、起源、ルーツ、出自などの意味があります)。マタイ福音書によるイエスの系図は3つに分けられ、それぞれが14代ずつに分けられています。14という数字は完全数にあたる7の2倍です。したがって、イエスに至るイスラエルの歴史が神の完全な計画に基づくものであり、イエスがそれを全面的に実現するために生まれてくることを暗示していると言えるでしょう。

 イエスの系図の区分点、分岐点とされているのは、アブラハム、ダビデ、そしてバビロン捕囚です。これは神がアブラハムになされた約束、ダビデになされた約束を、イエスが成し遂げられるということを示していると同時に、バビロン捕囚の時代になされたあの希望と慰めの預言もイエスとともに実現することを意味しているようです。

 しかし、この系図はすばらしい側面だけを持っているわけではありません。バビロン捕囚以後に記されている人物は、シャルティエル、ゼルバベル(1・12-13)を除けば、聖書の表舞台には登場しない人々です。イスラエルの歴史において名前も挙げられていない多くの人々のいのちを担ってイエスは生まれてくるのです。

 アブラハム、ダビデとともに、「バビロン捕囚」の出来事が重要な分岐点として挙げられていることにも意味があるようです。イスラエルの民がその歴史の中で最も苦しみ、悩み、神について、神との関係について問いかけることになったあの出来事が、イエスの系図の重要な分岐点となっているのですから、このような民の苦難もイエスの神秘を特徴づけているのです。

 また、ダビデから始まる王の系譜は、聖書の中で神の前に正しく生きなかったと断じられている王たちの系譜でもあります。ダビデについても、「ダビデの子はウリヤの妻によるソロモン」(1・6)と記されています。イエスの系図には、ダビデの大きな罪も刻まれているのです。イエスは、このようなイスラエルの罪の歴史をも担って来られる方です。

 さらに、この系図に挙げられているマリアを除く4人の女性たちにも意味がこめられているようです。ここにはアブラハムの妻サラのように救いの歴史に大きなはたらきをした女性たちが登場するわけではありません。むしろ、あまり語りたくはないような歴史の負の側面を想起させる女性が登場します。「ユダの子はタマルによるペレツとゼラ」(1・3)と記されていますが、ユダはタマルにとって舅です。事情があったとはいえ、ユダは息子の妻と関係をもってしまいます。こうして生まれた子どもがイエスへとつながっていくのです。「ウリヤの妻」はバト・シェバという名があるにもかかわらず、あえて名前ではなく、「ウリヤの妻」、すなわち他の人の妻であったことが明示されます。ラハブ(1・5)は娼婦です。そして、これにルツ(1・5)を加え、4人の女性全員がイスラエル民族の一員ではなく異邦人なのです。イエスは、このような女性たちに象徴される人々のいのちをも救うために生まれてくるのです。

 イエスはすべての人の救い主として来られます。しかし、それはわたしたちのすばらしい側面だけを取り上げ、救ってくださるという意味ではありません。わたしたちの苦しみ、弱さ、罪深さをも包み込むために来てくださるという意味なのです。わたしたちのすべてを担ってくださる方、このようなイエスをわたしたちは待ち望んでいるのです。

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