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これってどんな種?

この時という種 待降節第2主日(ルカ3・1〜 6)

 私たちが生きている限り、私たちと【時】は、切り離すことができません。もちろん、亡くなってからも私たちは、永遠の【時】の中に入るということになります。ですから、私たちは【時】と一緒に生きているということになりますし、その一瞬、一瞬がおん父からいただいた恵みの贈り物と言ってもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イスラエルの年代から始まり、洗礼者ヨハネにおん父の言葉が下る場面です。ルカ福音書は、他の福音書と違ってイスラエルの年代を描いています。それは、どのような時代の【時】にイエス様が生きられ、宣教を始めようとされていたのか、また、何故この【時】に洗礼者ヨハネにおん父の言葉が下ったのかということを知ってもらうためではないでしょうか。

 イスラエルは、紀元前722年にアッシリアとの戦争で負けた後、バビロン、ペルシア、ギリシャという他国からの支配が長く続き、紀元前63年からローマからの支配が始まります。みことばの最初に出てくる皇帝ティベリウスは、紀元1後4年から37年まで皇帝としてローマを治めていたようです。さらに、紀元後26年から36年までピラトがユダヤの総督を治めていました。そして、この時代にイエス様が宣教され、十字架にかけられたのです。

 洗礼者ヨハネは、イスラエルの人々が裕福な人はますます富み、貧しい人達は彼らから搾取された生活を送り、肉体的にも精神的にも苦しんだ人々の所におん父のみことばを伝えます。また、裕福な生活を送っていた人の中にも今の生活に疑問を抱いている人もいたのかもしれません、そんな彼らに対してもみことばを伝えていきます。

 おん父は、イスラエルの人々の心の叫びに耳を傾けられ、いよいよ実が熟しこれからおん子であるイエス様が宣教を始まる準備の【その時】に、洗礼者ヨハネに人々を悔い改めるように言葉をかけられたのです。イスラエルの人々は、本当に気が遠くなるくらい長い間救い主が来るのを待っていました。その間他国からの支配される中、バビロンによって支配され多くの人たちが捕囚民として苦しい生活を送った時代もありました。イスラエルの民は、バビロンから解放された後も列強の国々に支配され苦しい生活を送っていました。

 洗礼者ヨハネは、そのような苦しい生活を送っている人に宣教をし、悔い改めの洗礼を授けていきます。彼のもとに来た人々は、今までの自分の生活を振り返り、自分の罪深さに気づきおん父へと立ち返ろうと思ったのです。おん父は、この回心の心の中に働きかけられます。おん父は、私たちを愛しておられ、ご自分の所に立ち返る人を「いつくしみの愛」を持って赦してくださいます。

 詩編に「主よ、わたしは深い淵からあなたに叫びます。主よ、わたしの声を聞き入れ、切なる願いに耳を傾けてください。主よ、もしあなたが悪に目を留められるなら、主よ、誰が立っていられましょう。しかし、あなたのもとには赦しがあります。それ故、人々はあなたを敬います。」(詩編130・1〜4)という箇所があります。イスラエルの人々は、自分を振り返り、悔い改めを望み何とかしておん父の所に戻りたいと思っていたのです。そんな彼らの心に洗礼者ヨハネの言葉は、どのように響いたのでしょうか。

 おん父は、イスラエルの民の心の叫びを聞かれ彼らを再びご自分のもとに招き入れようとしておん子イエス様を遣わす準備として【悔い改めの洗礼を宣べ伝える】ために洗礼者ヨハネを遣わされます。みことばは、「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。』」とイザヤ書を引用しています。私たちにとって、【荒れ野】とはどのような状態のことでしょう。もしかしたらカサカサした乾燥しきった肌のような【荒んだ心】と言ってもいいのかもしれません。おん父は、そのような【荒れ野】の状態ではなく本来の「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」と言われ、ご自分の方に向かうように声をかけられているのではないでしょうか。私たちがおん父の方に向かうとき、私たちの心は、おん父の愛によって潤されることでしょう。

 みことばは、「すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くされ、曲がりくねった道は真っまっすぐに、でこぼこの道は平にされる。」とあります。これらの道は、ただ単に舗装された道のことを言っているのではないようです。このみことばは、私たちがおん父へと向かうことができるように、「余分なものを取り除きなさい」と言われているのではないでしょうか。もちろん、私たちだけの力だけでは不可能です。【荒れ野】で生きるためには、おん父への全幅の信頼がなければ生きていけないように、私たちもおん父への【お委ね】が必要になってくるのです。

 私たちは、おん父へと向かう心、おん父に近づく心に気づく時「すべての人が神の救いを見る」という言葉が私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。待降節の典礼を送る中で、改めておん父へと向かうこの【時】を大切に送り、イエス様の降誕を待つことができたらいいですね。

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