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これってどんな種?

失われた羊を癒すという種 年間第11主日(マタイ9・36〜10・8)

 現代人は、家庭、学校、職場などさまざまな所で人間関係、仕事などでストレスを抱え苦しんでいるのではないでしょうか。イエス様は、そんな私たちをご覧になられるときっと【憐れ】に思われることでしょう。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちを派遣する場面です。イエス様は、山上の説教を終えた後、山を下られ病人や悪霊に憑かれた人を癒やされる奇跡を起こされました(マタイ8・1〜9・34参照)。そしてきょうのみことばを迎えます。みことばは「イエスは町や村を隈なく巡り、ユダヤ人の会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気と患いを癒やされた」という言葉で始まっています。それは、イエス様が弟子たちとともになさった数々の業でした。

 イエス様は、福音を宣べ伝えるのは、み国の福音を教えるだけではなく、実際に人々に触れ、話を聞かれ、病を癒されます。それだけではなく、ご自分の弟子も召し出されます(マタイ9・9)。イエス様に付いて来た弟子たちは、イエス様がなさった業を間近に体験し感動し、豊かな気持ちになったことでしょう。

 イエス様は、余りにも大勢の人々が疲れ果て、苦しみ、希望をなくしている様をご覧になられます。その姿は、【牧者のいない羊】のような有り様だったのです。羊は、弱い動物で狼や野犬などから襲えわれるとすぐに命を奪われます。その羊を守り、牧草がある所に導く牧者が必要なのです。人々はその「【牧者】がいな羊」のように、疲れ果て、迷い、死の危険さえあったのでした。イエス様は、そのような彼らをご覧になり【憐れ】に思われます。この【憐れ】というのは、「はらわたが揺さぶられる」という意味で、イエス様は、心の底から彼らのために「なんとかしなければ」と思ったのでしょう。イエス様は、おん父がご自分に似せ、さらに「息を吹きかけて創造された」人々の変わりように憐れに思われたのです。

 イエス様は、「刈り入れは多いが、働く人が少ない。だから、刈り入れのために働く人を送ってくださるよう、刈り入れの主に祈り求めなさい」と弟子たちに言われます。弟子たちは、イエス様が【憐れ】に思われたことを肌で感じ、イエス様のように「なんとかしなければ」と思ったのではないでしょうか。イエス様は、そのような彼らを呼び寄せ、彼らに汚れた霊を追い出し、あらゆる患いや病気を癒す権能をお与えになられます。これらは、まさにイエス様がなさってきた奇跡でした。弟子たちは、イエス様がなさったその業を今度は、自分たちが人々の所に行って行う権能を頂いたのでした。このことは、私たちにも当てはまるのではないでしょうか。

 今、教会は「シノドス」に向けて準備がなされています。この「シノドス」というのは「ともに道を歩む」という意味ですが、イエス様とともに、また、私たちの周りの人々ともに【おん父】へと向かう【道】を歩むと言ってもいいでしょう。弟子たちは、イエス様から人々を癒す権能を頂きましたが、彼らは、自分勝手にその権能を使うのではなく、イエス様とともに使うのです。それは、洗礼の恵みを頂いた私たちも同じ使命と権能を頂いていると言ってもいいでしょう。

 みことばは、「12使徒の名前は、次の通りである」というように、ペトロから始まり、イスカリオテのユダの名前を記しています。イエス様の弟子たちは、律法学者やファリサイ派のような権威を持ったエリートではなく、漁師であったり、徴税人であったり、ローマからの支配への反対運動を起こしていた「熱心党」であったり、イエス様を裏切ってしまう者もいたのです。どちらかというと彼らは、人々から疎んじられる弱い立場の人たちでした。イエス様はそのような彼らを必要とされたのです。その中には、私たちもいると言ってもいいでしょう。

 イエス様は、「イスラエルの家の失われた羊のもと」に遣わされます。イエス様は、「すべての国の人々を弟子にしなさい」(マタイ28・19)と弟子たちを派遣しますが、まずは、イエス様が【憐れ】と感じられた「イスラエルの牧者がいない羊」たちの所に弟子たちを派遣されます。もしかしたら、まだこの時は、弟子たちが復活されたイエス様を体験していなかったからなのかもしれません。

 イエス様は、弟子たちに「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われ、さらに、イエス様が彼らにお与えになった権能を使って人々を癒しなさいと言われます。イエス様は、神の子ですから、一言「病に苦しむ人、悪霊に憑かれた人、すべて癒されなさい」と言って癒すこともおできになられます。しかし、そうではなく、弟子たちを派遣されたというのは、イエス様が弟子たち(私たち)と一緒に宣教されたかったのではないでしょうか。これは、イエス様のアガペの愛と言ってもいいでしょう。イエス様は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われます。私たちは、自分たちが宣教して得た賞賛をあたかも自分の能力、業と思う傲慢さに陥る傾きがあります。イエス様は、そのような私たちの傾きをご存知だったのでこのように言われたのではないでしょうか。私たちは、みことばを宣べ伝える中で、イエス様がくださった権能をイエス様とともに働きながら「失われた羊」を癒すことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  2. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  3. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

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