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これってどんな種?

わたしを思い出してくださいという種 王であるキリスト(ルカ23・35〜43)

 日本には「王」がない国ですので、「王」という感覚がわかりません。私たちはあくまでも「王」をテレビや映画、あるいは書籍を通して理解するしかありません。たとえば、立派な御殿に住んでたくさんの家来などがいて立派な服装をしてなど、想像できるのではないでしょうか。しかし、イエス様は、そのような【王】ではないようです。改めて私たちが描く【王であるキリスト】像を黙想してもいいかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が十字架につけられた場面です。イエス様は、これまで何度も「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、三日目に復活する」(ルカ9・22)と言われるように、ご自分が受難をお受けになられることを3度も弟子たちに伝えられました。しかし、その都度弟子たちは、メシアであるイエス様がそのような最期になることを信じられませんでしたし、理解することもできませんでした(ルカ18・34参照)。

 きょうのみことばは、イエス様が人々の前で、「真のメシアとはどのようなものか」ということを示されます。みことばは「民はそこに立って見ていた」という言葉で始まっています。彼らの中には、今まで教えや奇跡によって救われた人、噂などを聞いて「イエス様がメシアではないか」と興味と期待を抱いている人などさまざまな人がいたことでしょう。

 その中の議員たちは、イエス様をあざけって「あの男は他人を救った。もし神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言います。彼らは、これまで散々イエス様から言い負かされ、自分たちの行いや考え方を指摘されてきました。その度に彼らは、いつかはイエス様を殺そうと思うようになり、そして、彼らにとってその日を迎えることになったのです。彼らは、イエス様のことを軽蔑するように「あの男は」と言って、全く取るに足らないものとして見ていました。そして「もし神のメシアで、選ばれた者なら……」と言って、まるで「今まで受けた屈辱をここで晴らしてやった」と言わんばかりであざけります。

 次に兵士たちもイエス様の所に近寄り、酸いぶどう酒を差し出し、なぶりものにして「もしお前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言います。ローマの兵が差し出した「酸いぶどう酒」は、痛みを抑えると効果もあるようですが、王が普通に飲んでいる上等なぶどう酒ではなく、一般の人が飲んでいた「酸いぶどう酒」をイエス様に差し出したのでした。

 そして、最後はイエス様と同じように十字架にかけられた犯罪人の一人が「お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ」とイエス様を侮辱して言います。この犯罪人は、議員たちや兵士たちのように、ただ単にあざけったり、なぶりものにしたりではなく、自分の死が目の前にあって切羽詰まっていました。そして、彼は、罪を悔いるのではなく、自分自身を裁き、人を恨み、自分の罪を人のせいにし、自己中心で、単に生き延びたかったのかもしれません。

 彼らに共通して言えることは、「もしメシアであるなら。自分(たち)を救ってみろ」という言葉です。この言葉は、悪魔が荒地でイエス様に「もしあなたが神の子なら……」と言った言葉を思い起こさせます。悪魔は、イエス様を「神の子【なら】」と何度も、【メシアとしての能力】を使わせようとします。この誘惑は、常に自分のための虚栄であったり、傲慢さであったりと人のためにならないばかりか、何よりもアガペの愛はありません。イエス様は、これらの悪魔の誘惑をみことばを通して退けます。みことばには「悪魔はあらゆる試みを終えると、定められた時までイエスを離れた」(ルカ4・13)とあります。この【定められた時】と言うのが、まさにイエス様が十字架上にかけられた時だったのです。

 イエス様は、人々からどんなにひどい言葉をかけられても、【メシア】だからこそ降りることなく、彼らの頑なな傲慢さを憐れに思われ、回心するように思ったのではないでしょうか。しかし、彼らは、最後まで自己中心的で虚栄心があり、傲慢のままでした。

 最後にもう一人の犯罪者は、イエス様に「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください」と言います。彼は、自分がこれまで犯した罪を受け入れ、「こんな私ですが、もしよろしければ、思い出していだけるだけで私は慰められます」と言う気持ちでイエス様に言います。彼の言葉は徴税人の「神よ、罪人であるわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)という言葉と同じでした。彼の心からの祈りは、イエス様に通じます。

 イエス様は、この犯罪者に対して「あなたに言っておく。今日、あなたはわたしとともに楽園にいる」と言われます。もう彼の中には、イエス様の平和で満たされていたことでしょう。イエス様は、ご自分の最期が迫っているのにも関わらず、回心する人を救われます。イエス様はご自分が苦しくても、人のことに気を留められ、救いをお与えになられるお方であり、この姿こそがイエス様のアガペの愛なのです。私たちは、イエス様の【メシア】としてのお姿を味わい、悔い改めの心で「わたしを思い出してください」と祈ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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