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これってどんな種?

おん父に心を向けるという種 四旬節第1主日(マタイ4・1〜11)

 典礼は「四旬節」に入り、司祭の祭服も紫に変わりました。私たちにとって【四旬節】とは、どのようなものでしょうか。ある方から「教会の神父様から『四旬節は、大斎、小斎を守り、愛徳のわざ、信心業、節制を守りなさい』と言われたのですが、四旬節では具体的にどのようなことをすればいいのですか」と質問されました。改めて私たちにとって「四旬節」とは何だろうかと振り返ってみることもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が荒れ野で悪魔から3つの誘惑を受ける場面です。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、霊に導かれて荒れ野に行かれます。みことばには「それは悪魔によって試みられるためであった」とありますから、イエス様が荒れ野に行く理由は最初からわかっていたのです。

 なぜ、聖霊はなぜ「悪魔からの試み」があることを知りながらイエス様を荒れ野に導いたのでしょうか。さらに、なぜイエス様は聖霊に導かれて荒れ野に行かれたのでしょう。イエス様は、洗礼を受けた時に「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3・17)とおん父から言われているように、たとえ「悪魔の試み」であったとしても、「おん父の【心にかなう者】」としておん父のみ旨に従われたのではないでしょうか。

 それと同時に、私たちが受けるであろう【悪魔の試み】を先ず自らお受けになったのかもしれません。イエス様は、私たちがどのような時に【悪魔の試み】に遭うのか、また、そのような時にどのようにすればいいのかを身をもって示されたのではないでしょうか。みことばは「四十日四十夜断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づき、イエスに言った……」とあります。悪魔は、私たちが「空腹」の時に近付いて来るのかもしれません。それは、肉体的な渇きであり、生活の渇き、信心の渇きと言ってもいいでしょう。悪魔の試みは、私たちが油断している時に、狡猾な形で近づいて来るようです。

 悪魔はイエス様に「もしあなたが神の子なら、これらの石がパンになるよう命じなさい」と言います。もちろん、イエス様は奇跡を起こして石をパンに変えることもおできになられるでしょうが、イエス様はご自分のために奇跡を行われません。この誘惑は、私たちに「あなたならこのくらいできるでしょう」ということではないでしょうか。もし、私たちが「そのようなことは簡単にできる」と言って行うとき、そこから傲慢な心が芽生えるのかもしれません。

 イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」と言われます。このパンは食物というより、【私の心を満たすもの】と言ってもいいのかもしれません。そしてそれはエゴから出るものではなく、【神の口から出るすべての言葉】なのです。私たちは、「どれが神からの言葉なのか」を注意深く感じることが大切になってくるのではないでしょうか。そのためには、私の心がおん父の方に向いていなければいけません。今、私はおん父の方に向いているでしょうか。それとも、自分の方に向いているでしょうか。

 次に、悪魔はイエス様を聖なる都に連れていき、神殿の頂に立たせて、「もしあなたが神の子なら、ここから身を投げなさい。『神はあなたのためにみ使いたちに命じ、……手であなたを支える』」と言います。イエス様はこれに対して「『あなたの神、主を試みてはならない』とも書き記している」とお答えになられます。私たちは、悪魔が聖なるものに近づかないという錯覚があるのですが、悪魔は「聖なる都」「神殿の頂」というような場所さえも利用するのです。

 悪魔の誘惑は、私たちの地位や仕事の業を利用しようというものではないでしょうか。例えば、もし私たちが「私はこのように人のために、良い仕事をしているから、当然おん父は私を助けてくれるはずだ」と思っている時、私たちは、おん父を私の道具として考えてしまいます。イエス様はそのような私たちに「主を試みてはならない」と言われます。私たちの願い、望みはどこにあるのかをいつも見極める必要があるのではないでしょうか。

 悪魔は、最後に「……世のすべての国々とその栄華を見せて『もしあなたがひれ伏して、わたしを礼拝するなら、これらのものをすべて与えよう』」と言います。イエス様は「サタンよ、退け。『あなたの神、主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ』と書き記されている」と言われます。悪魔は、最終的には「おん父ではなく【自分】を礼拝しなさい」と言います。これは、偶像礼拝という意味ですが、私たちの心がどこに向いているのか、何に執着しているのかに気づくことが大切になってくるのではないでしょうか。もし、私たちがおん父よりも、【自分】の楽しみ、財産、時間、研究などに執着していたとすれば、悪魔に入り込む隙を与えてしまうことでしょう。

 私たちは、「悪魔」の存在を知ると同時に、どのような時に誘惑に襲われるのかを敏感に知り、感じる必要があるのではないでしょうか。そして、もし誘惑に負けて罪を犯したとしても、それを赦してくださるおん父のアガペの愛に信頼して、主に従いながら、日々の生活を歩んでいくことができたらいいですね。

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