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これってどんな種?

信仰の目で見るという種 復活の主日(ヨハネ20・1〜9)

 私たちは、どのような時に(復活された)イエス様を感じるでしょうか。残念ながら、弟子たちのように肉眼でイエス様を見ることはできませんが、イエス様が身近にいることを感じることができるのではないでしょうか。『足あと』という詩があります。ある人がイエス様と浜辺を歩いている夢を見て、いつもは、自分とイエス様の足あとがあったのが、その人が苦しい時、悲しい時には、足あとが一人分しかなかった。それで、どうして一人分しかないかとイエス様に尋ねます。イエス様は、「あなたが苦しい時、試練にあっていた時、わたしはあなたを背負って歩いていたのです」と答えられたそうです。彼は、夢の中でイエス様を身近に感じていました。

 私たちは、ペトロが「神はこの方を3日目に復活させ、現してくださいました。……わたしたちは、イエスが死者の中から復活された後、食事をともにしました」(使徒言行録10・40〜41)と言っていますように、ミサの中で聖体をいただく時にイエス様を手や舌でイエス様を受け、自分の体と一体となるのを感じるのではないでしょうか。

 そして、パウロが言うように、「上にあるものを求めなさい。……あなた方の命は、キリストともに神のうちに隠されているからです。あなた方の命であるキリストが現れるとき、あなた方もキリストとともに栄光に輝いて現れるのです」(コロサイ3・1〜4)とありますように、私たちが【上にあるものを求める時】私たちの中におられるイエス様を感じることができるのではないでしょか。私たちは、生活の中で(復活された)イエス様を感じることができたら良いですね。

 きょうのみことばは、「空の墓」を通してイエス様が復活されたことを弟子たちに知らせる場面です。マグダラのマリアは、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちにイエス様が葬られた墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見ます。この日は、イエス様が亡くなられてから3日目でした。彼女は、どうして3日目にイエス様が葬られた墓に行ったのでしょうか。もちろん、安息日に何か仕事をすることを律法で禁じられていたということもあって、安息日が明けた「週の初め」(今の日曜日【主日】)ということもあるでしょう。しかし、【3日目】と言うのは、当時「3日目までは、まだ死者の魂が体の周りにいる」と信じられていたようで、彼女もそのイエス様に会おうと思ったのかもしれません。それは、彼女のイエス様への【愛】の表れと言ってもいいのではないでしょうか。

 彼女は、墓から石が取り除かれているのを見て、シモン・ペトロとイエス様が愛しておられたもう1人の弟子の所へ走って行き「誰かが主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わたしたちには分かりません」と知らせます。彼女は、この時墓の中まで見てはいないのに、墓石が取り除かれたのを【見て】、誰かがイエス様を取り去ったと感じたのでした。それほど、彼女は気が動転していたのでしょうし、自分たちが愛している「主がいない」と思ったのでしょう。

 マグダラのマリアから知らせを受けた2人の弟子は、一緒に走って墓に向かいますが、もう1人の弟子の方がペトロより先に墓に着きます。なぜ、ペトロはもう1人の弟子より遅れたのでしょうか。ペトロが歳をとっていたということもあるかもしれませんが、イエス様がユダヤ人たちから捕らえられた時に、「イエス様を知らない」と言ったことが心のどこかに引っかかっていたのかもしれません。私たちは、心の中にわだかまりがある時、なかなか素直に相手に会うことを躊躇するのではないでしょうか。私たちが罪を犯し、イエス様に反いたと自覚している時には、なおのことイエス様に対して後ろめたい気持ちになり、素直にイエス様の方に向くことを気恥ずかしく思うことでしょう。

 先に墓に着いた弟子は、墓の中に入らず外からのぞいて亜麻布が平らになっているのを【見ます】。彼は、ここでイエス様がいないということを知りますが、復活されたということまでは理解していません。続いて、ペトロが墓の中に入って【よく見る】と亜麻布が平らになっていて、頭を包んでいた布切れが、亜麻布と平らになっておらず、元の所に巻いたままになっているのを見ます。ペトロは、マグダラのマリアが言うように、誰かがイエス様を取り去ったのではない、ということは分かったでしょうが、イエス様のお姿がなぜ見当たらないのか分からなかったようです。

 そして、もう1人の弟子が中に入ってきて、【見て】、信じます。この状態を見てこの弟子は、初めてイエス様が【復活された】と信じたのです。きょうのみことばの中では、たびたび【見る】という単語が出てきますが、マグダラのマリアやペトロが【見る(た)】のは、視覚的な見方でした。しかし、この弟子が「【見て】信じた」のは、霊的な目、信仰の目で【見た】からのようです。

 私たちが復活されたイエス様を【見る】ためには、同じように「霊的な目、信仰の目」で見る必要があるのではないでしょうか。私たちは、いつも側におられるイエス様を感じ、見ることができますようにイエス様に素直な気持ちで祈ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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