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これってどんな種?

聖体の恵みという種 キリストの聖体の祭日(ヨハネ6・51〜58)

 かなり前に『スーパーサイズミー』という映画がありました。この映画は、ファーストフードで名高いあるハンバーガーショップの商品を30日間食べ続けたらどうなるのか、という試みを監督自ら行ったドキュメンター映画です。結果は、肥満と脂肪肝、情緒不安定や疲労感が続くなど体に異変が続いたというものでした。ついつい体に悪いと知りながら、食べてしまうファーストフードですが、毎日3食を食べ続けるとどうなるのか、本当に怖い映画でした。では、反対に体に良い物を食べ続けるとどうなるのでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲みもの」と言われる場面です。イエス様は、5千人以上の人々にパンと魚を分けて皆が満腹し、さらに、人々が食べ残したパン切れが12の籠にいっぱいになったという奇跡を起こした後の話です(ヨハネ6・1〜15参照)。きょうのみことばは、イエス様が、この奇跡を体験してついて来た人々に話された後半の部分です。イエス様は、人々に「あなた方がわたしを捜し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・26)と話されます。

 そして、きょうのみことばでは、「わたしは天から降ってきた、生けるパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる」という言葉で始まっています。それまで、イエス様は、何度か、「わたしは命のパンである」とか「永遠の命」という言葉を使って人々に、ただ肉体の飢えを満たすだけの食べ物ではなく、もっと、大切なことがあることを伝えらます。しかし、人々はイエス様の言葉を理解できず、「これはヨセフの息子ではないか」(ヨハネ6・42)と言ったり、「この人は、どうして自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」などと言ったりして激しい議論まで発展していきます。

 ここに、イエス様の言葉を文字通りに頭で理解しようとする人々の限界があるのではないでしょうか。私たちは、みことばを通して、また、信仰を通してイエス様が何を伝えようとしているのかわかりますが、当時の人たちは、イエス様の言葉に困惑したのではないでしょうか。さらに、この時代は、「血を飲む」ということは、律法で禁じられていたので「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方の内に命はない」と聞いた人々は、さらに困惑したに違いありません。きょうのみことばの後に「これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう」(ヨハネ6・60)とありますし、「このことがあって、弟子の多くはイエスに背を向けて去り、もはやイエスと行動をともにしなくなった」(ヨハネ6・66)とあります。残念ながらイエス様の話を聞いて残ったのは、イエス様から声をかけられた12人の弟子たちだけでした。彼らは、完全ではないでしょうが、イエス様の話を【信じた】のではないでしょうか。

 イエス様は、「このパンを食べる人は永遠に生きる」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われます。イエス様は、私たちに【永遠の命】を与えるため、【復活】させるために私たちの所に来られたのです。これは、おん父がご自分の独り子であるイエス様を私たちにお与えになられたという【アガペの愛】と言ってもいいでしょう。私たちは、イエス様の肉を食べ、血を飲むことで生かされているのです。

 申命記に「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを教えるためであった」(申命記8・3)とあります。私たちは、【みことば】と、イエス様の体である【聖体】を頂くことで生かされているのです。私たちは、この素晴らしい恵みである食卓をミサの中で頂いているのです。ミサの中で読まれる【みことば】を聴き、食べるように味わい黙想することで命を得ることができます。そして、イエス様が言われた「わたしが与えるパン」である【聖体】を、「手に乗せ」「口に入れて」味わい【永遠の命】という恵みをいただくことができるのです。

 イエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内に留まり、わたしもその人の内に留まる。……わたしを食べる人もわたしによって生きる。」と言われます。私たちは、【聖体】を通して実際にイエス様が【わたしの内】にお入りになられ、同時に【わたし】も【イエス様の内】に留まっているのです。私たちは、聖体をいただくことで生かされ、その喜びを人々と分かち合うことができるのではないでしょうか。

 司祭は、ミサの中で「キリストの御体」と言って私たちに【聖体】をくださいます。私たちはその【聖体】を【アーメン】と答えて頂きます。この【アーメン】という言葉は、「そうでありますように」という意味ですから、「『わたしはこの聖体がイエス様の体である』と心から信じています」という宣言しているのです。私たちは、命のパンであり、まことの食べ物である【聖体】を頂いて肉体的にも霊的にも【生きる】ことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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