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これってどんな種?

掟を守るという種 復活節第6主日(ヨハネ14・15〜21)

 ギリシャ語では、愛を4つに別けているようです。恋愛の【愛】を表す「エロス」、友情、友愛の【愛】を表す「フィリア」、家族の【愛】を表す「ストルゲー」、そして無償、無条件の【愛】を表す「アガペー」という単語で【愛】を表しています。イエス様は、いつも4つ目の【アガペー】の【愛】を私たちに注いでくださっているのです。

 きょうのみことばは、イエス様がいなくなる前に、弟子たちを「みなしご」にしないように、聖霊を送ること、そして、ご自分も再び来てくださる、ということを弟子たちに伝える場面です。

 きょうのみことばは、「あなた方はわたしを愛しているなら、わたしの掟を守るはずである。」という言葉で始まっています。当時のユダヤ人たちにとって【掟】は、【律法】でした。律法には613もの掟があり、これを守らないと【罪人】というレッテルを貼られていたようです。ですから、弟子たちは、イエス様が「わたしの掟を守るはずである」と言われた時、「さらに守らなければならないものが増えるのだろうか」と思ったのではないでしょうか。

 しかし、イエス様の掟は「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13・34)と言われるものです。イエス様は、生涯を通して、また、復活された【今】に至るまでこの【掟】を守り続けておられます。そして、その【掟】を弟子たちに対して示され、同時に、私たち一人ひとりに対しても示されているのです。ですから、イエス様と私たちの関係は【愛】によって繋がっていると言ってもいいでしょう。

 イエス様は、「……別の弁護者を遣わして、いつまでもあなた方とともにいるようにしてくださる。」と言われ、【真理の霊】である【聖霊】を私たちの所に遣わしてくださるようにおん父に願われています。おん父は、ご自分の子であるイエス様を愛されていますから、イエス様の願いを必ずお聞きになられるのです。イエス様は、「わたしはあなた方をみなしごにしておかない」と言われているように、ご自分がいなくなっても【聖霊】が私たちとともにおられることを約束されたのです。私たちは洗礼の恵みを受けて【聖霊】を【知って】いますので、もうすでに、私たちの中に【聖霊】が留まっているのです。ただ、残念なことに私たちは、【聖霊】のことを時々忘れてしまう時があるのかもしれません。

 イエス様は、「しばらくすると、世はもはや見なくなるが、あなた方はわたしを見る」と言われます。イエス様は、【世】と【あなた方】を区別されます。少し前に「その方は真理の霊であるが、その方を、世は、見ようとも知ろうともしないので、受け入れることがない。」と言われます。そして、ここで再び「世はもはやわたしを見なくなるが」と言われます。この【世】とは、イエス様や聖霊を受け入れることを拒み、さらに「見ようとも知ろうともしない」といわれているので、全くの【無関心】ということです。このことは、イエス様の【掟(愛)】以外に固執している【傲慢】な心の表れではないでしょうか。

 イエス様は、弟子たち(私たち)に対して「あなた方はわたしを見る」と言われます。もちろん、この【見る】というのは、肉眼で見るというのではなく、【信仰の目、心の目】で見るということです。私たちが復活されたイエス様を【見る】時には、この【信仰の目、心の目】以外には見ることができないのです。それは、エマオへ向かう弟子たちが最初にイエス様に気づかなかったのと同じと言ってもいいでしょう(ルカ24・1〜31参照)。

 イエス様は、「わたしは生きているので、あなた方も生きるからである」と言われます。これは、とても不思議な言葉ではないでしょうか。その答えは、次のイエス様の言葉に隠されているようです。「わたしがわたしの父のうちにおり、あなた方はわたしのうちにおり、そして、わたしがあなた方のうちにいることを、その日、悟るであろう。」と言われます。イエス様は、少し前にも「わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると……」(ヨハネ14・11)と言われていますが、ここでも再び弟子たちに伝えられます。

 イエス様は、私たちを【みなしご】にしないように、【聖霊】を遣わすようにおん父に願ってくださり、さらに、私たちが【生きる(永遠の命)】ために【おん父】と【ご自分】が私たちの【うち】におられるということをみことばを通して約束してくださっているのではないでしょうか。

 イエス様は、「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛するものである。……わたし自身をその人に現す」と言われます。私たちは、イエス様から頂いた【新しい掟】を自分のものとするために、何度も繰り返さなければならないのです。私たちは、この【掟】を守り続けることによって、【三位一体の神】が私たちをさらに豊かにし、助けてくださるのではないでしょうか。私たちは、罪深く弱い人間ですがそれでも私たちの【うち】におられる【三位一体の神】を信じ、信頼してともに歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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