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これってどんな種?

究極の選択という種 年間第13主日(マタイ10・37〜42)

 私たちは、家族を優先するか仕事を優先するかという決断を迫られることがあるのではないでしょうか。例えば、大切な会議の時、または、取引先との商談の時に幼稚園や小学校から子どもが熱を出したとか、怪我をしたとかという連絡があった、ということもあるのではないでしょうか。

 『鬼滅の刃』というアニメがあるのですが、その中で、主人公の炭治郎は、大切な妹の命が危ない中、人を追いかけて食べようとしている鬼を退治しなければならないという場面に遭遇します。そんな兄をあと押して自分の身を犠牲にして、妹の禰豆子は、炭治郎に鬼を退治するように鬼の方に彼を突き飛ばす場面がありました。大切な使命か、それとも肉親の命かという究極の選択です。私たちの日常の生活の中でも、もしかしたら、どちらを選ぶべきか迷うようなことがあるかもしれませんが、善い識別ができたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちを宣教に派遣するために伝えた最後の教えです。それは、宣教のために自分の肉親を愛するか、イエス様を愛するかという究極の教えです。きょうのみことばは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」というイエス様の言葉で始まっています。私たちもそうですが、パレスチナ地方の人々は、同族や家族の絆を大切にしています。そのような彼らにイエス様の言葉は、どのように響いたのでしょう。私たちもこのイエス様の言葉を聞いた時、耳を疑いたくなるのではないでしょうか。

 この疑問に答える箇所が、マルコ福音書にあります。イエス様は「わたしのために、福音のために、家、兄弟、母、父、子、畑を捨てた者は、今、この世では100倍の家、兄弟、姉妹、母、子、畑を受ける。」(マルコ10・29〜30)とあります。イエス様は、このみことばで「わたしのために、福音のために」と言われています。このことは、きょうの「わたしよりも……」という言葉と重なるのではないでしょうか。

 イエス様は、「家族を愛してはいけない」と言われているのではなく、まず、宣教のためには、「わたしを愛しなさい」と言われているのではないでしょうか。イエス様は、「家族への愛よりもご自分への愛を優先することで、自ずと家族への愛が溢れ、豊かになってくる」と言われているのかもしれません。

 イエス様は、さらに「自分の十字架を担ってわたしの後に従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われます。パウロはローマの人々への手紙で「あなた方は知らないのですか。洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちはみな、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか」(ローマ6・3)と言っています。イエス様は、私たちを贖うために、まずご自分が十字架上で亡くなられ、復活されました。洗礼の恵みを頂いた私たちは、イエス様と同じように【自分の十字架を担う】という使命を頂いているのです。

 では、私たちにとって【十字架】とはどのようなものなのでしょう。イエス様は、「弟子が師のように、僕が主人のようになるなら、それで十分である」(マタイ10・25)と言われます。私たちは、完全にイエス様のように十字架を担うことができないかもしれませんが、「イエス様のようになる」という意思、意向があれば、後は、イエス様が助けてくださるのではないでしょうか。日常の中で、自分の時間を犠牲にして身近な人に手を差し伸べる、声をかけたり、話を聞いたりすること、自分のことを横に置いて、周りに目を向けてみること、自分が不得意なことを頼まれても、ちょっと頑張ってそのことに挑戦するなど、直接イエス様の十字架とは関係がないかもしれませんが、「【わたしの中で】イエス様のように」という意向があれば、それでいいのではないでしょうか。

 次にイエス様は、「あなた方を受け入れる者は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」と言われます。周りの人は、私たちの宣教の働きの中に、【イエス様やおん父の姿】は見えませんが、イエス様は「あなたたちの中におられるわたしやおん父を受け入れているのですよ」と言われているようです。私たちを通して行われている、イエス様やおん父のアガペの愛が相手にも通じているということではないでしょうか。

 イエス様は、預言者や義人を受け入れる人は、預言者や義人と同じ報いを受けけると言われています。預言者エリシャを自分の家に受け入れたシュネムの夫人が子を授かるという奇跡がありますが、まさに、イエス様が言われた「預言者や義人を受け入れる」ということが旧約聖書でも多く示されています。私たちの生活の中でも、私たちがイエス様とともに働いた時、同じように、周りの人の心の中にイエス様の愛の炎が燃え広がるのではないでしょうか。私たちは、みことばを伝える使命があると同時に、預言者や義人を受け入れる使命もあると言ってもいいでしょう。そのように、ある時は与え、ある時は受け入れることで、ますます、イエス様の愛が豊かに実ことでしょう。私たちは、イエス様から派遣された弟子としての恵みを頂き、みことばを伝えることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  2. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  3. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

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