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これってどんな種?

執拗に祈るという種 年間第17主日(ルカ11・1〜13)

 私たちは、子どもの頃から「お願いごと」をしているのではないでしょうか。子どもは、自分が欲しいものを「これが欲しい。これ買って、一生のお願いだから」と父や母におねだりをします。私たちにとって【願い】とは何なのでしょうか。改めて考えてみるのもいいかもしれません。

 きょうのみことばはイエス様が弟子たちに「祈り」について教えられる場面です。みことばは「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子たちの1人がイエスに言った、『主よ、ヨハネも弟子たちに教えたように、わたしたちに祈りを教えてください』」という言葉から始まっています。弟子たちは、イエス様が祈っておられる姿を見て「誰に祈っておられるのだろう。何を祈っておられるのだろう。自分たちもイエス様のように祈ってみたい」と思ったのではないでしょうか。それで、弟子たちは、ヨハネの弟子たちのように、「自分たちの祈り」をイエス様から教えてくださいと願ったのです。

 イエス様は、弟子たちに「祈る時には、こう言いなさい、『父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。……』」と教えられます。イエス様は、弟子たちがご自分に「祈りを教えてください」と言ってきたことを喜ばれたことでしょう。そして、まず弟子たちに「父よ、」とおん父への呼びかけから【祈る】ようにと教えられます。この「父よ」という言葉は、「お父ちゃん」という幼児語で子どもが父親に呼びかける時に使っていました。イエス様は弟子たちが、親しみを込めて父親に祈るように、おん父に祈りなさいと教えられます。

 そして、おん父の「み名が聖とされますように」と教えられます。この【名】というのは、私たちが使う「名前」というだけではなく、その人の心も体も「人格」のすべてを表しています。ですから、ここでは、おん父のすべてが【聖】とされますようにという意味です。そして、そのおん父の「み国」がきますようにと続きます。もちろん、「み国」とは、「天国」という意味ではなく、おん父とともにいる【場】とも言えるでしょう。

 イエス様は、まず、おん父に祈ることから始まり、続いて私たちの願いを祈ることを教えます。イエス様は、「わたしたちの日ごとの糧を、日ごとに、お与えください。わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るようにと教えられます。イエス様は、【わたしたちの祈り】として毎日の【糧】から始められます。それは、私たちの体の健康を願うということです。

 次に、私たちの【罪】に対しての祈りです。ここでは、私たちが犯す【罪】だけではなく、おん父から離れた状態に気づき、それを深く丁寧に見つめて赦していただくことも含まれます。そして、その【罪】からくる「わたしたち」と「周りの人」との関係を願います。私たちが『主の祈り』を唱える時に【人を赦す】祈りだけが唯一「能動的な祈り」ですし、それだけ「人を赦す」ことが、おん父に願わなければならないほど難しいということなのです。そして、最後に私たちに対しての「罪への誘い」から遠ざけてくださいと祈りで終わります。

 イエス様は、次にどのように祈ればいいのかと喩えを用いられます。イエス様は、「あなた方の誰かに友人がいて、真夜中にその人の所に行って、『友よ、パンを3つ貸してください。友人が旅の途中で立ち寄ったが、何も出すものがないから』というとする。……その執拗さに起き出して、必要なものを何でも貸してくれるだろう」と話されます。当時のパレスチナ地方では日中の暑さを避けて日が暮れて旅をしていたようです。この人は、旅人をもてなすための「パン」さえもなかったのでした。それで、彼の友人の所にパンを借りに行ったのです。

 彼自身も、こんな真夜中に「パンを貸してください」と友人を起こすことが迷惑だと思ったでしょうが、旅人をもてなすために、どうしても「パン」が必要だったのです。彼は、恥を偲んで友人の家の戸をたたいて「パンを貸してください」と【執拗】に願ったのです。イエス様は、祈るときにその【執拗さ】によって必要なものが得られると言われます。

 次に、イエス様は、「……誰でも求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれる。」と言われます。イエス様は、【執拗】に祈ることを教えられた後に、さらに、何が必要かということを【求め】、【探す】ことで、見出したものを【たたく】ことで「必要なもの」を得られると言われます。イエス様は、「父親は子どもが願うものを与える」ことを教えられた後に、「天の父がご自分に求める者に聖霊を与えてくださるのは、なおさらのことである」と言われます。

 きょうのみことばは、「おん父への祈り」から始まって、おん父が私たちに聖霊をくださるということを伝えています。私たちは、子どもが父親にお願いするように、必要なものを【執拗】に【求め】【探し】、そして【たたき】ながら祈り求めることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 執拗に祈るという種 年間第17主日(ルカ11・1〜13)

  2. 隣人となるという種 年間第15主日(ルカ10・25~37)

  3. 宣教の喜びという種 年間第14主日(ルカ10・1〜12、17〜20)

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