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これってどんな種?

もてなす心という種 年間第16主日(ルカ10・38〜42)

 私は、料理が好きで年に数回ボランティアで料理を作りに行くことがあります。ある年、私は友達を誘ってそのボランティアに参加しました。私は、その友達に良いところを見せようと思って料理をしたのですが、美味しい仕上がりになりませんでした。私は自分の傲慢さに気づき、料理を作るときには、謙遜に食べる人に喜ばれる食事を出さなければいけないと思ったことがあります。

 きょうのみことばは、イエス様と弟子たちがエルサレムへ向かう途中でマルタとマリアの家に招かれた場面です。みことばには、「ある村にお入りになった」とありますが、その村はベタニア(ヨハネ11・1)のようでエルサレムにだいぶ近づき、イエス様と弟子たちの旅も終わりに近づいてきています。イエス様にとっては、「もうすぐご自分の受難が始まろうとする場所に行かなければいけない」という気持ちがあったのではないでしょうか。

 イエス様と弟子たちは、その村でマルタの家に招かれます。当時、女性が家族以外の男性を家に招き入れるという習慣はなかったようです。イエス様は、そのような習慣を越えて救いが必要な人の所に行かれるのです。イエス様たちが家に入ると、マルタの姉妹であるマリアがイエス様の足元に座って、その話に聞き入ります。イエス様は、弟子たちに対して「神の国」のことを話されていたのではないでしょうか。マリアは、その話を一番イエス様に近いところで聞いていました。みことばにある「主の足元に座って」というのは、弟子が師の話に耳を傾けて聴く姿勢を表しているようです。

 マリアは、イエス様の話を寸分たりとも聞き逃さないように聞き入ります。それは、マリアにとって非常に重要なことだったのでしょうし、ヨハネ福音書には、「このマリアは主に香油を塗り、その足を自分の髪の毛でぬぐった女で……」(ヨハネ11・2)とありますので、それほど救いに飢え乾いていたのではないでしょうか。ユダヤ教では、ラビの話を直近で聞くのは、男性で女性は離れたところで聞いていたようです。ですから、マリアがイエス様の足元に座って聞き入るというのは、ユダヤ人たちにとって違和感があったことでしょうが、きっと、弟子たちもイエス様がこの家族と親しいということを知っていたので、彼女がイエス様の足元に座っているのも受け入れたのではないでしょうか。

 一方マルタは、イエス様の話が気になりながらもイエス様や弟子たちをもてなすために、忙しく立ち働いていました。ユダヤ教の女性は、男性が神への祈りに専心することができるように、いつも陰で男性のために奉仕をすることで神に仕えていたようです。ですから、マルタがしていた「数々のもてなしのため、忙しく立ち働く」というのは、当たり前のことだったのです。

 さて、マルタはマリアがイエス様の足元で聞き入っていて、自分ばかりがイエス様や弟子たちをもてなしていることに不満を抱いたのでしょう。みことばには「彼女はイエスの側に来て言った、『主よ、わたしの姉妹は、わたし一人にもてなしをさせておりますが、何とも思いませんか。』」と言います。マルタは、「イエスの側に来て」とありますからそれまでは、イエス様から離れた場所にいたのです。マルタは、マリアのことが気になってようやくイエス様の側に来たのでした。そして、マリアが男性に混じって、しかも、イエス様の足元に座って聞き入っていることへの不満をぶつけます。

 イエス様は、彼女に「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い煩い、気を使っている。しかし、必要なことは、ただ、一つだけである」と言われます。イエス様は、決してマルタを責めているのではなく、彼女の名前を2回呼ばれたのは、彼女を優しく諭すためだったのでしょう。イエス様が言われた「思い煩い」というのは、「中心から離れている」という意味があるようです。マルタは、このイエス様の話を聴きながら、自分がイエス様から離れていたことに気づき始めたのではないでしょうか。マルタは、イエス様たちを自分の家に招いたのですから、彼らに失礼がないようにもてなさなければと思って、すっかりイエス様の話を聴くことを忘れていたのかも知れません。

 そして、イエス様の「必要なことは、ただ、一つだけである」と言われた言葉が、徐々にマルタの心に染み渡ってきたのではないでしょうか。イエス様たちが家に入った時から、マリアは直感的にイエス様の【足元に座る】ことが必要なことと感じそちらを選び、マルタは【もてなす】ことが必要と思ったのです。マルタは、イエス様の言葉を聞いて【何が大切なのか】ということに気づいたのではないでしょうか。マルタは、いつの間にかイエス様を【中心】にすることから離れ、自分を【中心】にしてマリアの姿に腹立ちを感じたのでした。もし、マルタがイエス様たちを謙遜な気持ちでもてなしていたとすれば、たとえイエス様の話が聞こえていなかったにしても、マリアの心を受け入れていたことでしょう。

 きょうのみことばは、2つの【もてなし】方を示しているのではないでしょうか。私たちは、自分ではなくイエス様を中心に置いて【もてなす】ことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 小さな捧げ物という種 年間第17主日(ヨハネ6・1〜15)

  2. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  3. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

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