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これってどんな種?

恐れることはないという種 年間第12主日(マタイ10・26〜33)

 私たちが【恐れ】や【不安】を抱くのは、どのような時でしょうか。私たちは、自分の知識や能力をはるかに超えたものを任されたり、出会ったりする時、または、自分の身に危険を感じたり、強い圧力を感じたりした時に【恐れ】や【不安】を覚えるのではないでしょうか。

 私は、ある集まりのパネルディスカッションで、パネラーの依頼を受けたことがありました。それまで大勢の前で話をするということなどしたことがなかったのでとても不安な気持ちになりました。その気持ちを神父様に打ち明けたところ、「あなたは、自分の力でスピーチをしようと思っていませんか。神様にお委ねしてください」と言われたことがあります。その言葉に励まされ無事にパネルディスカッションを行うことができました。

 さて、きょうのみことばは、イエス様が12人の弟子たちを呼び寄せられ派遣される前に、彼らが人々から迫害を受けることを予告された後に、弟子たちを励まされる場面です。イエス様は、「今、わたしはあなた方を遣わそうとしている。それは、狼の中に羊を送り込むようなものだ」(マタイ10・16)と言われた後に、地方法院に引き渡され、鞭を打たれること、総督や王たちの前に引き出され、証しすることが起こると言われます(マタイ10・18〜19参照)。そして、そのような時には、「語るのはあなた方ではない。あなた方の父の霊が、あなた方を通して語られるのである」(マタイ10・20)と言われます。

 きょうのみことばの1節目は「人々を恐れてはならない。」という言葉で始まっています。この【人々】というのは、弟子たちを迫害している人々のことです。弟子たちは、イエス様から派遣され、「天の国は近づいた」ことを伝え、病人を癒やし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を清め、悪霊を追い出す権能を頂くことで宣教し多くの人を救ったにも関わらず、人々に迫害されるのです。弟子たちは、これから自分たちにどのようなことが起こるのか、いろいろな【恐れ】や【不安】がよぎったのではないでしょうか。

 ですからイエス様は【恐れてはならない】と言われます。きっと、その当時は、ユダヤ教が主流だったのでそれ以外の教えは、迫害されていたのでしょう。パウロも回心する前は「おもな主の弟子たちを脅かし、殺そうと意気込んで、……主の道に従う者は、男も女も見つけしだい縛り上げ、エルサレムに引いてくるためであった」(使徒行録9・1〜2)とありますように、ユダヤ教の人々にとってイエス様を信じる人たちは、異端者と見られていたのです。さらに、イエス様の昇天された後の初代教会は、ローマ帝国からも迫害を受けていました。

 イエス様は、弟子たちにこれらの様々な【迫害】を受けたとしても【恐れてはならない】と言われたのでした。イエス様は「覆われているもので現れないものはなく、隠されているもので知られないものはない」と言われます。このことは、イエス様が弟子たちと関わられ、復活し昇天されるまでに彼らに教えられた【真理】のことを言われているようです。弟子たちが宣べ伝える【福音】は、まだ当時の社会の中では、受け入れられるものではなかったのですが、いずれそれが全世界に広まっていくということをイエス様は言われておられるのではないでしょうか。

 イエス様は、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない」と言われます。ここでも、イエス様は、弟子たちに迫害する人々に対して【恐れることはない】と言われます。イエス様は、弟子たちを迫害する人々よりも、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた後に、弟子たちを迫害する人々を【恐れる】のではなく、おん父の愛から離れることを【恐れなさい】と言われているようです。

 イエス様は、「2羽の雀は1アサリオンで売られているのではないか。その1羽さえ、あなた方の父の許しがなければ、地に落ちない。あなた方は、髪の毛までもみな、数えられている。だから、恐れることはない」と言われます。イエス様は、1羽では何の価値もない雀や、私たちも何本あるのか分からない自分の髪の毛の数に至るまで、おん父の愛が注がれているということを言われているようです。イエス様は、ご自分が派遣する弟子たちが、人々から迫害されても、「何を伝え、行うことがおん父のみ旨にかなうことか」を弟子たちに伝えられているのではないでしょうか。それは、弟子たちと同じように、洗礼の恵みを頂いている私たち一人ひとりに対しても言われているメッセージなのかもしれません。

 イエス様は、「人々の前で、わたしの味方であると宣言する者すべてを、わたしもまた、天におられる父の前で、わたしの味方であると宣言する」と言われます。この「天におられる父の前」ということは、世の終わりの場面を言われているようです。イエス様は、昇天後に福音を伝える弟子(私たち)たちに対して、おん父のアガペの愛を示された後に、おん父が私たちを永遠の命に迎えてくださることをお約束されます。私たちはこのことに信頼し、おん父の愛にお委ねしながら【恐れずに】みことばを伝えていくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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