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これってどんな種?

信じるという種 三位一体の主日(ヨハネ3・16〜18)

 私たちは、日常の中で自分自身の中に居られるイエス様を意識しているでしょうか。四六時中意識するというのは、難しいかもしれませんが、ひと時でもイエス様を感じること、意識することは大切なのかもしれません。私たちの中に居られるイエス様は、ご自分を周りの人に伝えたくてうずうずしておられます。もし、私たちが、日常の生活の中でそのイエス様が働かれる場を与えるとき、周りの人たちは、わたしの中で働かれているイエス様の姿を感じ、「あっ、この人の中に、他の人と違う何かを感じる」と思われることでしょう。

 きょうのみことばは、ファリサイ派でユダヤ人の議員であるニコデモがイエス様の所を訪ねて来た時の会話の一部です。イエス様は、おん父が何のためにご自分を【この世】に遣わされたのかを伝えようとしておられます。

 きょうのみことばの前の節に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じるものがみな、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・15)とあります。イエス様は、ご自分が十字架上で亡くなることで、私たちが「永遠の命を得られること」を伝えておられます。しかし、ただそのためには【信じる】という一つの条件があるのです。

 私たちは、人を愛する時に「好き」という感覚が入り口なのではないでしょうか。そして、その「好き」という感覚は、相手と付き合っていく中で「愛」へと変わっていき、その「愛」がますます深まっていきます。同じように【信じる】という感覚も相手を知り、付き合っていく中で【信頼】へと変わって行くと言ってもいいでしょう。ある人から「私は、『なぜイエス様を信じたのか』と周りの人から聞かれても説明ができないのです。ただ、信じたのです」と言われたことがあります。

 私たちが、洗礼を受けたのは、イエス様を理屈抜きで【信じた】からではないでしょうか。イエス様を頭で理解することは難しいですが、イエス様を「信じる」こと、「愛する」ことで、その「信じる」が「信仰」へと深まって行くということを私たちは感じるのではないでしょうか。私たちがイエス様を【信じる】というのは、「理屈」も、「条件」もなくただ「信じるだけ」ですし、さらにすべてを【委ねる】気持ちが生まれて来ることでしょう。そこには、全くの【エゴ】は存在しません。

 きょうのみことばは「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」というイエス様の言葉で始まっています(フランシスコ会聖書研究所訳註)。この言葉は、【実に】という言葉がありますように、おん父が独り子であるイエス様をこの世に遣わしされた理由が、「この世を【愛】された」こと以外に何もないということを伝えているのではないでしょうか。

 おん父は、【受肉】から【十字架上の死と復活】に至るまで、イエス様のすべてをこの世に遣わされたのです。私たちは、弱く貧しく、すぐに罪に陥ってしまい、おん父の所から離れてしまいます。おん父は、そのような私たちのことをご存知であるのにも関わらず、私たちを【愛され、永遠の命】を与えてくださるお方なのです。むしろ、私たちがおん父のもとから離れているからこそ、ご自分の愛によって【永遠の命】をお与えになりたいのではないでしょうか。

 イエス様は、「神が御子をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである」と言われます。イエス様は、ご自分がなぜおん父から【この世】に遣わされたのかという理由として、「【裁く】ためではなくこの世を【救う】」ためであると言われます。【裁く】というのは、【滅ぶ】ことですし、【永遠の死】を意味するのではないでしょうか。

 おん父は、ご自分が創造され、ご自分の息を吹きかけられた私たちが【永遠の死】に向かうことをお望みになりません。おん父は、「わたしが悪人の死を喜ぶだろうか。……悪人が自らの歩みから立ち返って命を得ること、それをわたしは喜ぶのではないか」(エゼキル18・23)と言われます。そのために、おん父は、独り子であるイエス様をこの世にお遣わしになられたのです。

 さらに、イエス様は「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子を信じなかったからである。」と言われます。残念なことに、私たちの中には「光より闇を愛する」(ヨハネ3・19)傾きがあります。しかし、再び私たちが聖霊の息吹に背中を押され、おん父のもとに帰るとき、イエス様は、喜んで【永遠の命】へと導いてくださいます。それは、私たちがご自分を【信じた】からなのです。

 私たちは、罪を犯して「ああ、また罪を犯してしまった」と自分を責めて、裁いてしまう傾きがあります。もし、そのような状態でも、イエス様のいつくしみの愛を信じて、おん父に向かうとき、私たちは【永遠の命】を得ることができるのです。私たちは、おん父のもとから何度も離れてしまう弱い者ですが、それでもイエス様を【信じ】立ち返ることができるように聖霊の助けを願うことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  2. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  3. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

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