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これってどんな種?

イエスをまとうという種 待降節第1主日(マタイ24・37〜44)

 きょうの集会祈願の中に「わたしたちがキリストを日々の生活のうちに迎え、キリストと結ばれて、永遠の国を受け継ぐことができますように」とあります。私たちは、特別な日ではなく、日々の生活の中でイエス様の働きを感じ気づいていくことができたらいいですね。

 典礼では、待降節に入りこれからイエス様のご誕生を準備する期間に入ります。町の中では、イルミネーションやクリスマスツリーが飾られ、私たち以上にクリスマスに向けて準備をしているように見えます。私たちに求められていることは、外面だけではなくもっと内面での準備ではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様(メシア)が再臨されるということを伝えている場面です。きょうのみことばの前には、「その日、その時は、誰も知らない。天の使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マタイ24・36)とあります。イエス様の再臨は、イエス様ご自身もご存知ではなくて、おん父のみが知っておられるとイエス様は言われて、その日がどのような時に来るのかということがきょうのみことばの中でイエス様が語っておられます。

 イエス様は、メシアの再臨は「ちょうどノアの時と同様である」と話始められます。おん父は、ご自分が創られた人々が自分たち中心の生活をしていることをご覧になられ、ノアの家族以外の人々を洪水によって滅ぼされます。みことばの中にある「人々は飲み食いし、娶り、嫁いでいた」とありますが、これは、わたしたちが行っている普段の生活です。ここだけを見ますと、私たちの生活もおん父の目から見たら滅ぼされるに等しいのでは、と思ってしまいます。しかし、この箇所は、普段の生活の中に「おん父の心から離れている」ということを示しているようです。

 彼らは、洪水が襲って来るその時まで、【何も気づかずに】に自分たちが受けている恵みに感謝することなく、あたかも全てが自分たちだけのためのもの、自分たちが作ってきたものと、自分たちの能力の賜物と思い込んで当たり前の生活を送っていたのです。おん父は、そんな彼らを洪水によって滅ぼされます。イエス様は、このノアの洪水のようにメシアが来るのは、「誰も【何も気づかない】時に来られる」と言われているのです。

 イエス様は、「その時は、2人の男が畑で働いていると、1人は連れていかれ、1人は残される。……」と言われます。私たちは、このイエス様の言葉を聞くとき、助かるのは50パーセントだと考えてしまい、「私はどちらだろう」と怖くなるのではないでしょうか。ここでイエス様が言われているのは、人数ではなく「外面では同じように見えても、内面でどのような気持ちで働いているのか」ということを言われているのではないでしょうか。洗礼の恵みを頂いてる私たちは、内面から醸し出される三位一体の主との共働を意識したいものです。

 少し前に水墨画に惹かれた青年を描いた『線は、僕を描く』という映画を観ました。その中で師匠が弟子に「もう一度」と言って何度も書き直させる場面があります。道を極めた人は、弟子の心の僅かな差異に気づくことができ、水墨画に限らず、花道や茶道、柔道や剣道などのような【道】の歩みから出てくる、その人の「心の状態」に気づくことができるようです。おん父は、私たちが日々の生活の中で思っている傾き、同じ作業でもどのような気持ちで行っているのかをご覧になられているのではないでしょうか。

 イエス様は、そんな私たちに「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、主が来られるか、あなた方は知らないからである」と言われます。イエス様は、「その日」がいつ来るのか知らない、私たちに【目を覚ましなさい】と言われ、「おん父の方に目を向けていなさい」と言われているのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中で「おん父の方に目を向ける」ことを意識するだけでもいいのかもしれません。

 パウロは、「日中歩くように、慎み深く生活しましょう。主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13・13〜14)と言っています。パウロが「主イエス・キリストを身にまといなさい」というのは、私たちがコートやショールを羽織るように、イエス様で私たちを覆う、包むと言っているのかもしれません。このように意識することで、私たちは日々の生活を「誰からも見られても良いような生活となる」のではないでしょうか。洗礼の恵みを頂いた、私たちはもうすでにイエス様をまとっているのです。私たちが日々の生活をイエス様と一緒に行うとき、私たちは「目を覚ましている」と言えることでしょう。

 イエス様は、「……家の主人は、目を覚ましていて、家に忍び込ませはしない。だからあなた方も用意していなさい」と言われます。私たちは、「目を覚ましていなさい」とか「用意していなさい」と聞くと緊張してしまいますが、「【私】が目を覚ます」のではなく、イエス様に「目を覚まさせてください」と祈ることとで緊張も和らぐのではないでしょうか。私たちは、イエス様を身にまとい、いつも目覚めながら日々の生活を送ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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