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これってどんな種?

口に出して言うという種 復活節第3主日(ヨハネ21・1〜19)

 私たちは、考え事をしている時、頭の中で整理できない時、または、何か悩んでいる時などその思いを誰か信頼する人に打ち明けることで、解決に導かれ、新たな発見や希望を見出すことがあります。もちろん、それだけではなく信仰を持っている私たちは、主なる神に「わたしはどうしたらいいのでしょう」と心の中で、あるいは口に出して話しかけるといいかもしれません。主なる神は、きっと【いつくしみの愛】(アガペの愛)によって新たな何かをくださることでしょう。

 きょうのみことばは、復活後のイエス様が弟子たちに三度現れた場面です。弟子たちは、エルサレムで家の戸に鍵をかけていたのにも関わらず復活されたイエス様に出会い、さらに聖霊をいただきました。さらに彼らは、その一週間後イエス様がトマスにも出会われ、トマスの信仰告白の場面にも立ち会うことができました。そして、きょうの場面は、彼らがエルサレムからガリラヤに帰ってきてペトロの家に集まっていたところです。

 弟子たちは、復活したイエス様と出会った時の喜びを保ちながらそれでも何をすればいいのかわからなかったのかもしれません。そんな時、ペトロが「わたしは漁に出る」と言ったのです。ペトロのこの言葉は、何か思ったらすぐに行動に移そうとする、彼の性格が現れているような気がいたします。この言葉につられて他の弟子たちも一緒に出かけて行ったのです。しかし、彼らは、せっかく何かをしようと行動に移したのですが、魚も捕れず、また何も見出すことがなく失望のうちに帰ってきたのです。

 そんな彼らをイエス様は、岸辺にお立ちになっておられ、「子らよ、何か食べるものはないのか」と尋ねられます。弟子たちは、その声をかけられた方がイエス様だとは気づかなかったのです。このイエス様の言葉は、漁に関してはベテランの彼らにとって、プライドを逆撫でするような言葉でなかったでしょうか。しかし、彼らは正直に「ありません」と答えます。イエスは、彼らに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れる」と言われます。彼らは、その通りにすると網を引き上げることが出来ないほどの魚がかかります。

 これは、私たちにも当てはなるのではないでしょうか。私たちは、自分たちの力だけで【何かをする】と思っても、そこにイエス様が入る場所がないためうまく出来ません。みことばには、「イエスが岸にお立ちになった。しかし、弟子たちはイエスだと分からなかった」とあります。弟子たちは、「自分たちだけで何かをしなければ」と思い、イエス様が側に立っていても気づくことが出来なかったのです。

 弟子たちは、イエス様が「舟の右側に網を打ちなさい」という言葉とおりすることで、引き上げることが出来ないほどの魚が捕れました。この箇所は、ただの奇跡の場面ではないような気がいたします。【弟子たちと舟】は【私たちと教会】を表しているようです。そして、【網】は、私たちの福音宣教の手段であり、【魚】は、その結果の【実り】と言ってもいいのかもしれません。私たちの【福音宣教】は、自分たちの力だけではうまく出来ませんが、イエス様の言葉に忠実に従う時初めて多くの【実り】を得ることができるのではないでしょうか。

 イエス様は、岸に上がってきた弟子たちに「さあ、朝の食事をしなさい」と言われ、ご自身が彼らに近づきパンや魚をお渡しになられます。このことは、【ミサ】と言ってもいいでしょう。【漁の奇跡】と【朝の食事】は、まさに【教会】を表しているとともに私たちの信仰生活を表しているのではないでしょうか。

 イエス様は、食事が終わるとペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねられます。ペトロは、「はい、主よ、ご存知のように、わたしはあなたを愛しております」と答えます。イエス様は、ここで【この人たち以上に】と言われています。このことは、ペトロとイエス様というパーソナルな関係を意味しているのではないでしょうか。教会は、共同体ですがそれだけではなく、イエス様と私たち一人ひとりとの繋がり、関係の大切さを示していると言ってもいいのかもしれません。

 ペトロは、イエス様から「わたしを愛しているか」と3度尋ねられ、その都度「わたしがあなたを愛しております」と答えます。この応答は、イエス様が私たちに弟子としての確認と言ってもいいでしょう。私たちが洗礼を受ける時、司祭の問いに「信じます」と3回答えますし、司祭の叙階や修道者の誓願式の時も「自分の意思」を口に出して答えます。このことは、人々に宣言するだけではなく、自分自身への覚悟を意識するということでもあるのではないでしょうか。

 イエス様は、ペトロがどのような最期を遂げるかを伝えられた後、「わたしに従いなさい」と言われます。きょうのみことばは、【教会】の姿を表すとともに、私たちがイエス様の弟子としてのあり方を表しているのではないでしょうか。私たちは、復活したイエス様と出会い、使徒として歩む使命をいただきました。私たちは、イエス様の「わたしに従いんさい」という呼びかけに応え、使命を忠実にイエス様とともに歩んで行くことが出来たらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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