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これってどんな種?

おん父にお返しするという種 年間第29主日(マタイ22・15〜21)

 ヨブ記の中に「わたしは裸で母の胎を出た。裸で、そこに帰ろう。主が与え、主がお取りになった。主の名は祝されますように」(ヨブ1・21)という一節があります。この箇所は、私が父の死者カードに選んだものです。私たちは、自分の肉体も霊魂もすべておん父から創っていただいたものですから、私たちが亡くなったとき、すべてをおん父にお返しして、私たちが行った善い業によって「主の名が祝される」と思うのです。

 きょうのみことばは、納税問題を扱ってイエス様を陥れようと企んだファリサイ派の人々とヘロデ党の人々にイエス様が「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われる場面です。

 みことばは、「それから、ファリサイ派の人々は外に出ると、イエスの言葉じりをとらえようと協議した。」という言葉で始まっています。彼らは、イエス様がエルサレムの神殿にお入りになられた時に、神殿で商売をしている人たちを叱責したことから始まり、「洗礼者ヨハネのこと」「2人の息子の喩え」「悪い小作人の喩え」「王子の披露宴の喩え」など再三イエス様から指摘を受けてきました。

 イエス様は、彼らの間違った生き方を正し、おん父の方に向かように促しこれらの【喩え話】をされたのです。しかし、残念なことに彼らは、そのように捉えず、自分たちのプライドが傷ついたことに腹をたて、イエス様の【言葉じり】をとらえようとして協議をしたのです。ここに、彼らの(私たちの)【プライド】という厄介な【垢】があることに気付かされます。この【垢は】は知らず知らずのうちに、何重もの層となりおん父と私たちの間に壁を作ってしまうのです。

 彼らは、普段は反目しているのにも関わらず、イエス様を陥れようとすることに関しては、連携できる「ヘロデ党」の所へ自分たちの弟子を送りイエス様の言葉じりを捉えうようとします。ここでも、ファリサイ派の人々の姑息な気持ち、あの【垢】が出てきて、自分たちはなく彼らの「弟子」を遣わしたのでした。

 さて、彼らはイエス様のところに行って「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、……ところで、お伺いしますが、……」と言って質問をし始めます。彼らが発した言葉は、イエス様がこれまでなさってきたことで、彼らはそのことを知りつつも、イエス様の教えを素直に受け入れることができず、陥れるための「口上」として使ったのです。一見イエス様を賛美しているように聞こえますが、皮肉と悪意に満ちていました。イエス様は、以前「『この民は口先だけでわたしを畏れ敬うが、その心は、わたしから遠く離れている』」(マタイ15・8)とイザヤ書を引用されてファリサイ派や律法学者に対して言われたことがありましたが、まさに、彼らがイエス様に言った言葉は、この【口先だけでの敬い】だったのです。

 彼らは「ローマ皇帝に人頭税を納めることは、許されているでしょうか、いないのでしょうか」と質問します。もしイエス様が「許されている」と言われると、ローマから支配されているユダヤ人たちから敵視されますし、「許されていない」と言われれば、ローマ帝国の意に反する者として訴える口実となるのです。

 イエス様は、彼らの質問に対して「偽善者たち」と言われます。この言葉は、イエス様が再三彼らの回心を呼びかけてきたのにも関わらず、一向に自分たちの立ち位置を変えようとせず、おん父のところから【遠く離れた場所】にいる頑なな心に対して言われたのです。イエス様は、「人頭税に納める銀貨を見せなさい」と言われます。この銀貨には、「皇帝ティベリウス」の肖像が掘られ、「ティベリウス・カエサル 神君アウグストゥスの息子にして皇帝)」という、皇帝の神性を表す銘文が刻まれていたのです。

 彼らは、「お前はわたしのほかに何ものも神としてはならない。自分のために偶像を造ってはならない」(出エジプト記20・3)という律法に反するため、神殿への納税としては、使えず神殿の境内で両替していたのです。しかし、日常では、この銀貨を使っていると言う矛盾を抱えていました。

 彼らは、イエス様の「これは誰の肖像か。また、誰の銘か」という質問に「皇帝のものです」と答えます。イエス様は、彼らの答えを聞かれ「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられます。イエス様が、強調されたかったのは、後半部分の「神のものは神に返しなさい」という言葉だったのでしょう。

 私たちはこの地球を含め、私たち自身もすべておん父から創られたものです。さらに、私たちは、「われわれにかたどり、われわれに似せて人を造ろう」(創世記1・26)とありますように、【おん父の荷姿】として創造されたのです。このように考えますと、【私のもの】はまったくなく、【私のすべて】をおん父にお返しするということになります。私たちは、計り知れないおん父からの恵みに感謝し、日々の行いをおん父にお返ししながら過ごすことができたらいいですね。

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