今日はペトロとパウロをお祝いします。ペトロは使徒の頭として、エルサレムを中心に宣教活動を行い、パウロは異邦人の世界に入って宣教活動を行いました。二人に共通することは、欠点が多かったにもかかわらず、教会の礎を築いたことです。
ペトロはイエスのことについて、「あなたは生ける神の子、メシアです」(マタ16・16)と信仰告白をします。このことに対して、イエスから「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。…あなたに天の国の鍵を授ける」(マタ16・18~19)と褒められます。ところが、すぐ後ではイエスが「多くの苦しみを受けて、殺され、そして三日目に復活すること」(マタ16・21)を語ると、ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめ始めます。「主よ、とんでもない」と。こうしたやりとりの後、ペトロはイエスから、「サタン、引き下がれ」(マタ16・23)と叱られます。あれほど立派な信仰告白をした後なのに、イエスのことを何も理解していませんでした。これだけ叱られると、弟子として失格でしょうが、イエスは彼を弟子のリーダーとして使っていきます。
一方のパウロは、迫害者であったにもかかわらず、ダマスコの途上で「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9・4)と照らしを受け、回心していきます。あれほどキリスト者たちを迫害していたのに、神はパウロを使徒として選んでいきます。神はパウロのことを「わたしが選んだ器である」(使徒9・15)と。神に選ばれたパウロは、宣教者としての使命を忠実に果たしていきます。欠点が多いにもかかわらず、神の選びは違っていました。その後、パウロの宣教は苦労が伴います。「今の今まで、わたしたちは飢え、渇き、着る物もなく、人に殴られ、住む家もなく、自分の手で働きながら苦労を重ねています。ののしられては祝福を祈り、迫害されては耐え忍び、そしられては優しい言葉をかけます。今に至るまで、わたしたちはこの世の屑とされ、また、あらゆるものの滓とされています」(一コリ4・11~13)。この他にも、パウロの宣教にあたっての苦労が数多く記されていますが、彼は神に選ばれた者として忠実に奉仕していきます。
ペトロとパウロを見ていくと、欠点がたくさんあっても、神の招きは人間の思いをはるかに超えていることが感じられます。