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霊的生活の模範 使徒聖パウロ

罪・不義の武器――霊的生活の模範 使徒聖パウロ(13)

51 「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」(Ⅰテサロニケ5,2-3 )。

52 司祭は、どんなほかの人よりも罪を打ち破らなければならない。罪の根源さえも絶やさなければならない。

 というのも最もひどい地獄を恐れなければならないからである。「あわれみを知らぬ暴君よ、なぜ、悪を誇るのか? ……あなたは、善をすて、悪をえらび、正義をすて、いつわりを選んだ。……故に神は、あなたを打ち倒し、永久にあなたを破り、幕屋からあなたを引きずり出し、生きる者の血から、あなたを亡ぼしつくされる」(詩編52,3.5.7)。

 司祭が罪を犯せば人々にあたえるべき無数の恩恵をなくしてしまうからして人々に莫大な損失を与える。司祭は奮発心と霊的生命とをなくしてしまえば、もはや山の上に置かれた町、光、塩ではなくなってしまう。死んでから「四日もたっていて、すでに臭くなっている」ので埋葬しなければならない。

53 死はえそ=からだの一部分が死滅し、その機能を失うこと=から始まる。「ですから、この地上に属する部分を死なせなさい。みだらなこと、汚らわしいこと、衝動的な欲望、やこしまな情欲、それに貪欲です。貪欲は偶像崇拝と同じです」(コロサイ3,5 )。その意味は心身の能力を不義の武器にしないようにすることです。すなわち知恵、心、耳、目、舌、のど、手、足。感覚を不義の武器にしないことである。無数の言いわけや誘惑やさそいがあってもそれらを不義の武器にしてはいけない。

 その意味は、絶え間なく用心し、初期の動きをしりぞけること、高慢や好奇心や、肉欲にふけることや貪欲や怠惰の機会を避けることである。

 その意味は隠れている敵を追い払うこと、犠牲を自分で引受ながら、霊魂の敵を攻撃することである。それは自分のすべてを精神に服従させるためである。

 その上、罪を犯しやすい普通の人間から、あり余った力を全部取り去ることである。

 普通の人間の心を動かすものは、次のものである。名誉、権力、成功、名声、金儲け、快楽、家庭、満足。しかし、神、神だけが私たちの行動の指針であるから、以上のものを押さえなければならない。

 人々は次の多くのことを追い求めている。遊び、安楽、室内装飾、尊敬、徳の高い人であるという光栄、豊かさを追い求めている。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」(Ⅰティモテオ6,6-8 )。

 司祭は裕福な生活や人からの好意や家庭からの好意さえも求めてはいけない。

54 私たちは人の思惑に一喜一憂してはいけない。すなわち私たちはこびへつらいをいやがり、失敗したり、軽蔑されたり、そしられたりしても意気消沈してはいけない。私たちは神のみに気に入ってもらいたい。迫害も艱難も死も、功績も取り除きえないし、また神をも取り除きえない。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ8,35-38 )。

 司祭は公の場で働かなければならないから、人からの評判や思わくが非常に気になりやすくなっている。

師イエスに向かって

55 「あなたがたは『古い人』とその行いを脱ぎ捨てたのです」(コロサイ3,9 )神から与えられるこの卓越性、つまり自然的な傾きからの解放は、少しずつ古い人からそのもっているもの、望んでいるものを一つずつ取り去っていく絶え間ない、しかも骨の折れる努力によってえられるのです。自己を捨て、十字架を取り、あなたに従うという、この三つの決意を毎日新たにしなければなりません。

 自然を変え、超自然を身につけ、新しい人になりましょう。

 私たちの意向を調べましょう。なぜこのことに着手するのか? なんのために外出するのか? なぜこの会話をするのか? なぜあの人をえり好むのか? よりいっそう神を喜ばむるためか? それとも自分の気に入るからなのか?

 私たちの話と判断を調べてみよう。なぜこの同僚、この兄弟、この企画、制作、この説教をこのように批判するのか? なぜ私はこれらのことを激励したり、あるいは妨害したりするのか? 神の栄光を思いつめたためか? それとも自分の利害、名誉、好みを思いつめたためか?

 私たちの心の状態を確かめよう。何故悲しんでいるのか? 批判、不成功、困難によって神の栄光が妨げられるからか? 自愛心が傷つけられたためか? なぜ今日は喜んでいるのか? 人間的な満足のためか? あるいは神の栄光を増すことができたからか?

 自我が死んだのか? ひつぎの黒覆いの下に前にもまして自我が生きているのか? 祭服とストラの下にさえも今まで以上に自我が生きているのか? だから私は、自分の意向と心の状態と判断とを正さなければなりません。ただの人間的なことはなくし、すべてを超自然化しなければならない。「私のうちに生きるのはキリストである!」「高潔な精神を私の中に回復させてください」。

ロザリオの祈り、ミゼレレ。

・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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