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霊的生活の模範 使徒聖パウロ

宣教者――霊的生活の模範 使徒聖パウロ(7)

24 「わたしは、この福音のために任命されて、宣教者となったのです」(Ⅱテモテ1,11参照)。「あなたは、神の前に立つにふさわしい、鍛練した者、恥じることのない働き手、真理のことばを正しく伝える者となるように努めてなさい」(Ⅱテモテ2,15)。

a 「みことばを宣べ伝えなさい。良い時にも、悪い時にも、常にこれに専念しなさい。忍耐強く絶え間なく教え、とがめ、戒め、励ましなさい」(Ⅱテモテ4,2 )。
 説教することが司祭の正式な務めである。それは不可欠な、最も効果ある手段であり、現代の最も差し迫った手段である。「人々が健全な教えを聞こうとしない時が、必ず来ます。その時、人々は、自分の都合のよいように、耳を楽しませる教師たちを大勢手もとに集め」(Ⅱテモテ4,3 )。それゆえ、「私はどうしても説教しなければならない。でないと私にとっては災いになる……」キリスト信者も召命も、修道規律を守ることも……たいてい説教の成果である。

25 神のみことばを正しく扱うこと……。
 適当な分量の、しかも内容のある説教しなければならない。そのためには聖書や教理や倫理や典礼に関する勉強をしなければならない……。
 説教は聖なるものでなければならない。聖は文字を扱うものでもなければ政治問題などを扱うものでもない……。
 私たちは説教の直前にその時、その時の準備をしなければならない……。
 私たちの説教には教義と倫理と典礼が入らなければならないけれども、どの説教の中にも、それらが全部入る必要はない……。
 説教は現代に合ったものでなければならない。説教の聞き手を私たちの考えに同調させるには、その聞き手の考えかたを知らなければならない。
 説教は聞き手の要求とレベルに合わせたものでなければならない。
 説教は動機の面でも、方法の面でも、目的の面でも超自然的なものでなければならない。説教は統一のとれたものでなければならない。すなわち統一的な構成をもった(例、聖トマ)つまり体系的な、一つの教訓を引き出すような(放蕩息子)内的省察に基づく(セニェリ、レチェネリ)説教でなければならない。
 ことばでも、表現法でも、長さでも節度をわきまえて、聞き入れられるようにしなければならない。

26 聖パウロは生まれつき雄弁の素質に恵まれていた。ことばの賜物をたくさんいただき、いつも同じことを言いながら、いつも新しいことを言い、またキリストの愛から、いのちを受けていたのである。「私が人間の異語、天使の異語を語ろうとも……だから私たちをキリスト愛から引き離すだろうか?(Ⅰコリント 13,1、ローマ8,35)。
 人の意見を考えすぎずに「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」(ガラテア1,10)
 花をまき散らさずに(訳注、しゃれとか飾りたてた話しかたをしないで)、また人を迷わさずに、聞き手のためになる話をしようと努めなければならない。
 気にさわることや気を落とすようなことを言ってはいけない。そうでないと神のことばは地に落ちても、大部分、実を結ばないであろう……。しかし、実を結ぶ人もいる。
 それは苦労の多い役務である。「泣きながら出かけて行ったが、帰りには、……たずさえて意気ようようと帰ってきた」(詩編125,6 参照)。
 「それで、わたしは、選ばれた人々のためにすべてを耐え忍んでいます。それは、彼らにもまた、キリスト・イエスに基づく救いと、それとともに、永遠の栄光を得させるためです」(Ⅱテモテ2,10)。
 私は、自分の説教を資量ともに、いつも改善したい。私はまちがいのない働き手ではなかった。
 長い間、説教の準備として、説教を全部書いていたが、今では少なくとも要点だけを書き留めている。

師イエスに向かって

27 あなたはすべての人に天のみ教えを信頼をこめて素朴にお教えになりました。
 あなたは私を宣教へ派遣してくださいました。私は司祭です。
 あなたは偉大な宣教者聖パウロを保護者としてお与えになりました。
 あなたは美しい心の人たち、つまりより抜きの青少年たちを教え導くようにと、これを私にゆだねました。
 あなたはことばや出版や映画やラジオという種々の強力な手段を世に提供してくださいました。
 私はあなたの命令をよく遂行したでしょうか? 外面的にきよく果たしたとは言えません。内面的にも、私は必ず、十分に祈ったわけでもないし、いつも愛徳を尽くしたわけでもありません。いくたびか根性が欠けていたかもしれませんね? 「この世を裁く、すべてのことを書き記されている書物が、持ち出されるであろう」(旧ローマ・ミサ典書の死者のミサの続誦、ディエス・イレ「神の怒り」の第五節)。
 私の聴取者たちが臨終の時に私の前に立って、私が必ずしも率先してよい模範を示したとは限らないことや、謙遜が足りなかったことや、まかれた種が芽を出すようにと祈らなかったと言うかもしれない。「そのとき私はなんと言いましょうか、この惨めな私は?……」。

 ロザリオの祈り、ミゼレレ。

・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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