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霊的生活の模範 使徒聖パウロ

キリストの死にあやかる――霊的生活の模範 使徒聖パウロ(10)

37 十字架は、「神の最高の英知であり、徳であり」ただ私たちの救いの功徳因としてあるだけではなく、模範囚としてもあるのである。「私はキリストの死の様を身におびる」(フィリッピ3,10)。

38 洗礼は死であり、復活である。「洗礼によってキリストとともに埋葬されたあなたがたは、死者の中からキリストを復活させた神の力を信じることによって復活するのです」(コロサイ2,12参照)。

 誓願はいっそう完全な死である。「なぜなら、あなたがたは死んで、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているからです」(コロサイ3,3 )。

 司祭叙階はずっと前に亡くなった一青年の荘厳な埋葬であり、死亡届けである。

 「あなたがたも罪に対して死に、神に対して生きている者であることをわきまえなさい」(ローマ6,11)。すなわち、ただの自然的な生活と罪が取り除かれる。それはキリスト教生活、修道生活、司祭生活が生かされるためである。

39 聖パウロはダマスコのあの時に、罪と誤謬と頑固さとファリサイ的考えといった過去のことすべてに死に、またこの地上にパウロを縛りつけていたものすべてに死んだのである。すなわち、血族、家伝来のもの、出世の夢、生設計に死んだのである。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリッピ3,5-6 )。これらのことばからパウロが、これ以上反逆を企てえないほどの深い墓に、すっかり埋葬されていたのかがわかる。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得るためです」(フィリッピ3,7-8 )

 パウロは世間の与えるものを墓の中に葬った。すなわち権力とか重要な地位とか影響力を捨て、疑い、あざけり、迫害、侮辱をものともしなかった。

 パウロ、あらゆる欲望を捨て、自分に必要なものさえ捨てた。人からの誉れや非難にも平然としていた。「このわたしは、あなたがたに裁かれても、あるいは人間の法廷で裁かれても、いっこうに意に介しません。それだけでなく、自分で自分を裁くこともしません。……わたしを裁くのは主なのです」(Ⅰコリント 4,3-4 )。財産もなく、人間的支援も受けず、体力もなく、身の保全となるものを何一つもたず、いのちさえも救えずに、みんなのために、いつも、死ぬまで働き通すだろう。それにしても、パウロは、次のように挑戦する。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか?」(Ⅰコリント15,55 )と。

 「死さえも一つのもうけである。「生命は取り去られるのではなく、変えられるのである」(死者のミサの序誦)。

40 修道服は、すべての人に対して死んだというしるしである。その儀式のときわたしたちは、「神の人」、イエス・キリストの姿を見せる。すなわちこの世的な人間としては死に、霊的な人間として生きる。

 不信仰者は司祭のことを、次のような者と思い込む。すなわち夢を見ている気が狂った人、熱狂者、暗い人、野心家、自虐性のある人と思い込んでいる。いわば、自分の生活をだめにしてしまうし、しかも、まわりの人の生活も、だめにして回る人であると思い込んでいる。「かれ(義人)の生活を狂ったものと思い、不名誉な死にざまをすると考えた」(知恵の書5,4)。

 司祭はただ死んだ者と見えるだけであってはならない。実際に死んだ者でなければならない!

 わたしはそうなのか? 「もはやあなたたちと多く語るまい。この世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしに対して何の力もない」(ヨハネ14,30 )。

師イエスに向かって

41 「罪の業のゆえに死んだ者であったわたしたちを、キリストとともに生かしてくださいました」(エフェゾ2,5 )。ですから、司祭にはどんな罪もあってはならないのです。大罪も小罪もあってはならないし、悪に対しては決して同意してはいけません。「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させ、その欲望に屈服してはなりません。また、あなたがたの五体を、罪に使えるよこしまなことのための武器にしてはいけません」(ローマ6,12-13 )。私はあらゆる手段を使って、ほかの人の罪にもゆるしを与え、これを追い払い、取り除かなければなりません。もしわたしがイエス・キリストと同じように罪を嫌うなら、以上のことはできるでしょうか。「あなたたちのうちだれが、わたしに罪があると指摘できるのか」(ヨハネ8,46)。

 罪への性癖、この傾きを取り除かなければなりません。「罪に対して死んだわたしたちが、どうしてなお罪のうちに生き続けることができるでしょうか」(ローマ6,2 )。罪への傾きは一度にはなくなりません。毎日ゆっくりとなくなっていくものです。私たち人間はみな、司祭である私もおびただしい恐ろしい危険にさらされています。

 聖パウロはダマスコで破滅した後に自分のことを、こう書いています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている……「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7,18-19.22-24 )。イエスよ、私は以上の誘惑を感じています。感じていないと言えば嘘です。しかし、あなたのお恵みによって罪への傾きに同意することがないように望んでいます。あなたの恩恵は充分なのですから。「おまえはわちしの恵みで十分だ」(Ⅱコリント12,9)。

ロザリオの祈り、ミゼレレ。

・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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