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霊的生活の模範 使徒聖パウロ

選びのうつわ――霊的生活の模範 使徒聖パウロ(3)

 「すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒9・15-16 )

5 選びのうつわ。自然の賜物、養成の賜物、恩恵の賜物という点で選びのうつわである。神からの賜物をたくさん受けているという点で、パウロと司祭とは似た所が多い。
 永遠から神は司祭の上に目を留められた。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。(エフェゾ1,4-5)。
 私は自然のたくさんの賜物、つまり知識と健康と正確と素質とエネルギーをいただいた。私は教育の面ではたくさんの賜物、つまり家庭と教会と学校と同級生と宗教施設に恵まれた。
 聖霊は私のためにたくさんの準備をしてくださった。つまり洗礼とほかの秘跡、この召命に対する興味、神の最も愛情のこもった準備、つまり志願者、修練期、誓願、叙階などを準備してくださいました。

6 「私の名前をもたらすために……」。私の召命は、パウロに似ている。
 「宣教するために召された」。つまりことばで、書き物で、霊的指導で、学校で、告白場で会議で、要理教育で、家庭的な談話の中で、つねにどこでも「すべての人に」宣教するよう召されている。現代の要請にいっそうこたえる最も強力な手段をもって宣教するよう召されている。
 手本とことばで「指導するように召された」。司祭や子供たちや若者や婦人や大人の偉大な教育者である。個人指導か、政府機関を通じて人々を教育する。「わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである」(マタイ28,20 )この意味は「個人としてか、あるいは団体としてか」「人々の指導者、統治者」となるということである。
 「聖化するために召されている」。パウロは悪習を打破し、善いものを築き上げ、広げ、(罪から)解放し、神に心を上げ、聖化しなければならなかった。
 司祭も、また「イエス・キリストの使徒、福音の宣教者、神の奥義の分配者、キリストの奉仕者」(Ⅰコリント4,1参照)である。
 司祭は時代の動きに介入しなければならない。つまりイエス・キリストの王国を平穏に建設し、その拡張と浸透に備えなければならない 。
 選びのうつわ、いっぱいになった、あふれ出る選びのうつわ。

7 「わたしたちのなぜならのために、どれほど苦しまなければならないか、私が示そう……」。
 それには次の二つの苦しみがある。
 苦行すること、私全体を、つまり知恵も体も精神も「抑制すること」。
 使徒職の苦しみ。
 内部からの嫌悪感、外部からは戦い。つまり悪魔に対して、肉体に対して、世間に対しての戦い。

 ・糾明──「さて、大きな家には金のうつわ(たとえば、パウロ、レオ、フランシスコ、アネフォンソ、ドン・ボスコなど)や銀のうつわ(一般労働者であって、丈夫な根気強い者)、だけでなく、木のうつわ(価値の少ない、安っぽく見積もられている人)や土のうつわ(なまぬるい、怠惰な、世俗的な人)もある。「あるものは尊いことに、あるものは卑しいことに用いられます」(Ⅱテモテ2,20)

師イエスに向かって

8 無から私を引き出されました。排泄物から引き上げられ、キリスト信者の指導者の座を与えられ、(地の)塩、(世の)光であるキリストの奉仕者、宣教者とされました。これは次のような目的のためです。
 聖書の中に、教える教会の中に、自然の中に、私の神をよりよく知るため。よりよく信じるため。いつの日か、神をいっそう深く直観するため。 「人々の中で、この世に輝く星のように光り輝きます」(フィリッピ2,15)と人々に教えるためです。
 神によりよく仕えるため。つまり神の最高栄誉となることをしながら、一つの最高善益となることをしながら、永遠につながることをしながら、神に仕えるためです。外的に明らかにされた神のみ旨を行なうためです。み旨が天に行なわれるように地上でも行なわれるように人々を導くためです。
 より深く愛するため。神との絶え間ない親しい心からの一致を定着させ、もっとよくすべての人のために祈り、心をつくしい万事を越えて主を愛するためです。

 ・糾明──私は多くの司祭たちにも、多くの修道者たちにも、多くの一般キリスト信者にも、多くの一般人にも、おそらくは、獣にも劣っているようです。私は少なくともいくつかの点で「かれらに似たものとなったのです」。
 あなたがサウロになさったように私を回心させてください。私はサウロよりも深いところに落ち込んでいます。というのもあなたを知ってからも罪を犯したからです。「針のついた突き棒をけることは痛いこと」(使徒 26,14)であり、無益であると思います。
 私は身をゆたねます。聖母マリアに免じて私にあわれみをかけてください。
 ロザリオの祈り、ミゼレレ。

・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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