71 二種類の熱心がある。一つはサウロのまちがった熱心である。
「先祖からの伝統を守るのに人一倍熱心で、同じ年頃の同胞にまさってユダヤ主義に徹しようとしていました」(ガラテア1,14)。もう一つはパウロの本当の熱心である。「あなたがたに対して、わたしは神が懸けておられるのと同じ熱い思いを懸けているのです」(Ⅱコリント11,2)。
a まちがった熱心は次のようなものである。
反省のない熱心──「サウロは教会を荒らし回っていた」。
愛のない熱心──「脅迫し、殺そうと意気ごむ」。
節度ない熱心──「ガマリエルと正反対に手かげんせずに教会を迫害し、これを攻撃した」。
どう説明すべきか? 押さえきれない気質のゆえ気ままに怒り散らしたゆえに。伝統に対する盲目的な、一辺倒の愛着のゆえに。偏った、まちがった考えかたのゆえに。「私はファリサイ派の者であり、ファリサイ人たちの子である」ということから狭量となり、自己批評が゛てきなくなり、中庸の精神もなくなっていた。
その結果、どうなるか? 目が見えなくなり、破壊活動をして、神から見捨てられていまうということもありうる。
「もしあなたがたが、心の激しいねたみや利己心を抱いているならば、おごりたかぶり、真理に背いて偽るのをやめなさい。このような知恵は、上から下ってくるものではなく、地上的なもの、動物的なもの、悪魔的なものです」(ヤコブ3,14-15 )。
72 本当の熱心は次のものである。神の栄光と人々のためにだけ働くことが本当の熱心である。世の中でいととおなじように熱心に働く。
回心後のパウロと同じような特徴をそなえた熱心である。
「上からの知恵(真の熱心)はまず第一に清く(つまり慎み深く謙虚である)
次に平和な(熱心に信仰を擁護する場合も)
控えめな(意志堅固でも謙虚な)
説得力があり(納得させ、愛情を勝ち取り、押し付けない)
真心のこもった(歓待し、みんなの善いところを常にほめる)
あわれみ(好んでゆるし、痛みを分かち合う)
良い実(その実から植物がわかる)、偽りのないものです。
神のみ心にかなった生活という実を結ぶ種は、平和をもたらす人によって、平和のうちにまかれます」(ヤコブ3,17-18参照)。
73 「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(Ⅱコリント6,4-10)。
師イエスに向かって
74 熱心は神と人々への愛の花です。
あなたのみ心の火を私のうちにともしてください。純粋なくすぶらない炎を燃え上がらせてください。たくさんのつまらない卑しい性癖を焼き冬くすような灸を、燃え上がらせてください。穏やかな光で私を啓発し、元気づけ、優しく熱心を増してくれるような炎を燃え上がらせてください。
「あなたがたは、自分がどんな精神に従っているかを知らない」。
この炎は次の条き件で大きくなっていくでしょう。
(1) 私が、自分の心情や目や趣味や自然的な好き嫌いを克服できるなら。
(2) 私が、「自分のことについても、教えについても注意を払い、これらの勧めを守り抜きなさい」(Ⅰテモテ4・16)という聖パウロの望んでいることを実行して、いっそう静修のできる状態になれるなら。
(3) 私がミサ聖祭を愛し、もっとよくささげ、もっと熱心に聖体を拝領し、もっとよい 聖体訪問をするなら、要するに私の日々をいけにえの一日にするならぱ。
(4) 自分をなんとしてもつぐないができる状態にしておくなら。
ロザリオの祈り、ミゼレレ。
・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。