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霊的生活の模範 使徒聖パウロ

大司祭を考えよ――霊的生活の模範 使徒聖パウロ(15)

61 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」(ヘブライ13,12-13)。

62 私たちは次のことを考えてみよう。「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」(ヘブライ3,1 )

 イエスは異例の死にかたをする人である。聖人でありながら盗賊の間でむごたらしく死ぬ。「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(ヘブライ3,9-10)。

 死にかかっているかたは私たちの神である。「神はいったい、いつ、どの天使に向かって『あなたはわたしの子、きょうあなたを生んだ』と言われ、また、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる』と仰せになったことがあるでしょうか?」(ヘブライ1,5 )。天使たちは臨終のイエスに立ち会っている。この死にかかっているおかたは、いずれ私たちにも立ち会ってくれるはずであろう。臨終の父のベッドの所には、むすこたちが立ち会うはずであろう!

63 彼は戸外で死ぬ。「民の罪を償うためである」(ヘブライ2,17)「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブライ2,14-15 )。「それで、イエスもご自分の血を持って民を聖なる者とするために」(ヘブライ13,12 )。

 すべての徳と恩恵とは十字架から来る。

 十字架によって私たちをイエスの苦しみにあずからせる。「なぜならわたしたちは、キリストにあずかる者となるのです」(ヘブライ3,14)すなわち私たちはシオンから追放された者と寸分違わないものとなった。なぜならイエスの功徳は私たちのものとなったからである。「それゆえ、キリストは新しい契約の仲介者であって、最初の契約のときに犯した過ちをあがなうために死なれたのです。これは召された者が、すでに約束された永遠の遺産を受け継ぐことができるためです」(ヘブライ9,15)。次の新しい契約がある。「聖とするかたも聖とされる人々も、ともに皆、もとは一つです」(ヘブライ2,11)。すなわちおん血を飲む司祭とこのおん血を受ける会衆も、この同じおん血によって聖とされる。「永遠の救いのため、すべてに従ってなしとげられた」。イエスは、ご自分の愛を私たちに示すために次のことをされた。「キリストもわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自分を、神へのかぐわしい香りの供え物、いけにえとしてさし出されたのです」(エフェゾ5,2 )。

 だから聖パウロと教会の手本にならって私たちは十字架のことを考え、十字架について説教し、これをいっそう愛さなければならない。

64 (イエスは)すべての徳の手本であり、職務と使命に対して忠実であった。「彼は死に至るまで従順な物となった」。人々に対する奮発──「イエスはわたしを愛して、ご自分をわたしのために渡された」。甘美さ──「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどさず」(Ⅰペトロ2,23)。我欲にとらわれなかった──「イエスはご自分を空しくされた」。忍耐──「彼は羊のようにほふり場に引かれて行った。黙々として毛を刈る物の前に立つ小羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53,7、使徒行録8,22参照)。堅忍──「わたしはあなたから与えられた業をなし遂げた」(ヨハネ17,4)。

 私は黙想し、忌み嫌い、学び、約束し、愛する。主よ、次の二つの恵みを与えてください。すなわちあなたに祈り、あなたを愛することができますように。

師イエスに向かって

65 あなたが大祭司であり、いけにえであると私は思っています。あなたは大祭司、「わたしたちの信仰の大祭司」(ヘブライ3,1 参照)です。彼は「神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」(ヘブライ5,10-11 )私もこの司祭職にあずかっています。あなたは私のかしらであり、栄光であり喜びです。なんと偉大なことでしょう!

 「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」(ヘブライ7,26-27 )

 いけにえは無限の価値があります。ささげるおかたは無限に的確な方だからです。その奉納物は、あらゆる時代にわたって、しかも永遠にわたってすべての人のためにささげられています。それは地上では永続的に、さらに天では永遠に繰り返されるのです……。ですから、一度行われるだけで十分なのです。

 「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブライ9,11-12 )「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」(ヘブライ9,24)。

 司祭である私は、キリストとともに働くのです。キリストによって私はミサ中に奉納する道具となります。ミサではキリストの真の主要なささげ手となって、つまりホスチア(いけにえ)となって活動します。

 ロザリオの祈り、ミゼレレ。

・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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