「使徒の女王マリア」の祝日は、私の属する修道会、聖パウロ修道会に固有の祝日で、聖霊降臨の主日の前日に祝われます。修道会に固有の祝日ではありますが、もともとすべての修道会は神が教会全体に与えてくださった恵みであり、その霊性の豊かさも全教会で分かち合われるべきものですから、皆さんにもこの祝日を紹介したいと思います。
聖パウロ修道会の創立者は、福者ヤコブ・アルベリオーネ神父です。どの修道会にも、神から与えられた使命を基礎づける霊性が存在するのですが、アルベリオーネ神父は、神の導きのもと、それを道・真理・命である師イエス・キリストを中心に理解しました。キリストが師として、私たちの中に入ってこられ、私たちの隅々にまで浸透し、私たちの中で生きてくださる。私たちもそのために全面的な協力をする。こうして、私たちはすべての人にキリスト全体を与えるよう駆り立てられ、私たちを通してすべての人にキリストが入っていかれ、その人たちの中で生きてくださるようになる……。この霊性─使命を読み解くかぎは「使徒」という概念にあります。実際、アルベリオーネ神父は「道・真理・命である師イエス・キリスト」の霊性を生きるために、「使徒の女王マリア」と「使徒パウロ」という2つの大きな柱を私たちに示しましたが、そのどちらも「使徒」に関わるものとなっています(「道・真理・命である師イエス・キリスト」、「使徒パウロ」の両祭日については、すでにこのコーナーで取り上げたので、それを参照してください)。
「使徒」という概念は、もともと「遣わされた者」、「使者」を意味します。しかし、イエス・キリストに遣わされた者の中でも、「12人の弟子」はこの世に来られたキリストご自身から召され、派遣されたため、歴史上、「使徒」の称号はこの12人(とパウロやバルナバ)だけに限定して用いられるようになりました。ただし、称号としてはともかく、キリスト者は皆キリストから遣わされた者、使徒であるという理解は、常に教会の中で深められてきました。アルベリオーネ神父も、「使徒」概念を教会の礎となった人たちに限定することなく、より広い意味で私たちに当てはめていきます。
「使者」といっても、現代の社会・文化では、その役割は理解しにくいかもしれません。まず最初に指摘しておきたいのは、「使者」は「伝令」とは異なるということです。「使者」は、託された書面を渡したり、遣わす者の言葉を繰り返すだけの人ではありません。使者は、遣わす者の全権を帯びています。いかなる時、いかなる場合においても、使者の言動は遣わす者の言動を映し出すものでなければなりませんし、また周りからもそのように受け止められるのです。ですから、遣わす者は、全幅の信頼を置くことができる人、自分のことを十分に理解している人を使者に選びます。そうでなければ、常に遣わす人の意志を伝え、表現することができないからです。
アルベリオーネ神父の理解では、この意味で「使徒」と呼べるのは、まず第一にイエスです。イエスだけと言ったほうが的確かもしれません。イエスは父である神の使徒です。御父との深い特別な内的交わりの中におられ、イエスだけが御父を完全に理解し、私たちに伝えることがおできになるからです。
しかし、これは何もアルベリオーネ神父に固有の理解ではありません。たとえば、それはヨハネ福音書の大きなメッセージの一つです(ヨハネ福音書は「使徒」という言葉では呼びませんが)。ヨハネ福音書では、「遣わす方」という表現(定冠詞+分詞)が御父の代名詞のように使われています。また、「遣わされた方」という表現(定冠詞+分詞)は、それだけでイエスを指します。イエスは、ご自分が御父から聞いた言葉だけを語り、御父の望みだけを行なっていることを、繰り返し強調します(たとえば、ヨハ5・19〜、8・26〜、12・49〜、14・10〜など)。また、イエスを見た者は御父を見たとまで言います(12・45、14・9など)。それは、イエスが「父のふところにいる独り子である神」(1・18)だからです。逆に、このイエスを除いて、神を見た者はいないと言います(1・18、6・46など)。御父から遣わされた者であるイエスは、過越の神秘を通して、今度は私たちを遣わしてくださいます。しかし、そのモデルはあくまで御父とイエスの関係です。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20・21)。私たちは、御父の完全な使徒であるイエスに倣って、この御父とイエスとの深い内的交わりの中に入る時、初めてイエスの「使徒」となることができるのです。
それでは、なぜマリアは「使徒の女王」なのでしょうか。「使徒の女王」という称号は、「使徒たち(私たちも含めて)の女王」という意味と、「これらの人たちが使徒として行なう活動(=使徒職)すべての女王」という意味が込められています。
さて、イエスこそが唯一、完全な意味での御父の使徒だとすれば、このイエスの「使徒職」、つまり御父の言葉とわざを告げ、行なうこと、御父を示すことは、イエスの受肉がなければ、つまりイエスが人として生まれなければ実現しませんでした。一方で、このイエスの受肉は、神がマリアをお選びになり、マリアが信仰をもってこれを受け入れた(「お言葉どおり、この身に成りますように」ルカ1・38)ことによって実現しました。つまり、マリアこそが御父の使徒であるイエスを生み出すと同時に、この世でイエスがその使徒職を果たすことを可能にしたのです。そして、イエスの後に「使徒たち」が続き、その使徒職を行なうことを可能にしたのです。もちろん、この恵みをマリアに与えたのは神ですが、マリアが、すべての「使徒たち」と彼らの「使徒職」を世に輩出するプロセスの中で必要不可欠の役割を果たしたことは事実です。
それだけではありません。十字架のもとで教会が誕生する時に、マリアはイエスのもとにとどまり、教会の母とされました(ヨハ19・26〜27)。そして、イエスの霊が弟子たちに注がれるその時に、マリアは弟子たちの中にあって、この霊を祈り求めたのです(使徒1・12〜14)。イエスとの関係を考える時、人間は自分の力だけでは、御父と御子の内的交わりに入っていくことができません。それを可能にするのは、人の心に注がれる聖霊なのです。聖霊が弟子たちに注がれ、弟子たちの中でイエスの教えを理解させ、これを現実の生活に適用させてくださるからこそ(ヨハ14・26、15・26、16・12〜13)、弟子たちはイエスの使徒となることができるのです。この意味でも、弟子たちが使徒であること、使徒として生きていくことを可能にさせるその瞬間に、マリアは中心的役割を果たしたと言うことができるのです。そして、この出来事は、今でも「使徒」が誕生するたびに、またその「使徒職」が行なわれるたびに、マリアがその役割を果たしているとの確信を私たちに与えてくれるのです。
私たちは、このマリアの果たした務めのゆえに、神に感謝するとともに、マリアを崇敬します。そして、今も必要な使徒たちをおこしてくれるように、私たちすべてのキリスト者のわざがキリストの使徒としてふさわしいものとなるように、使徒の女王であるマリアの取り次ぎを求めて祈るのです。
しかし、マリアが使徒の女王と呼ばれるのには、もう一つの理由があるようです。それは、マリアが最もすばらしい使徒職、使徒職の模範ともいうべきわざを行なったからです。イエスに見られるように、使徒職とは、遣わす方の言葉を語り、その望みを行なうことから始まって、ついには自分の生活、生き方そのものが遣わした方を現すようになることであると言えます。遣わす方の思い、望みなどを自分の中に浸透させ、育み、同化させていくことによって、当たり前のように、この方の思い、望みが自分の言葉、行動、生き方となって現れていくようになるのです。マリアは自らの胎内にイエスを受け、育み、そして生み出しました。イエスとの深い内的一致を通して、自ら生み出したイエスを、人々に指し示したのです。これこそ、最高の使徒職の一つと言えるでしょう。もちろん、私たちは、マリアが受けたこの固有の恵みを受けることはできません。しかし、霊的にイエスを受け、自らの中で育むことはできます。こうして、私たちの中でイエスが完全に成熟した時、完全な形を持った時、つまり「私」の中の「イエス」こそが自らを現す時、私たちもマリアに倣った最高の使徒職を行なうことができるのです。あらゆる使徒職の模範、その意味でもマリアは使徒の女王なのです。