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これってどんな種?

イエス様を見つけるという種 聖家族の祝日(ルカ2・41〜51)

 親の心配を知らずに勝手気ままな行動をするという意味で「親の心子知らず」という諺があります。私たちは、おん父のみ心をどのくらい感じているでしょうか。この一年間を振り返っておん父から頂いた恵みと感じ、感謝できたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様が両親と共に「過越の祭り」でエルサレムに巡礼に行った時の場面です。きょうの箇所の前ではヨセフ様とマリア様が、律法に決められたように最初の男の子を主に奉献するためにエルサレムに連れて行かれます(ルカ2・22〜38)。その後、「両親は主の律法どおりにすべてをすませて、自分達の町、ガリラヤのナザレに帰った。幼子は成長し、たくましくなり、知恵に満たされた。神の恵みがその上にあった」(ルカ2・39〜40)とあります。

 ヨセフ様とマリア様は、イエス様を【律法】に従ってエルサレムに奉献され、日常においても【律法】に従って生活されたことでしょう。もちろん、両親は、イエス様に対して【律法】という枠だけではなく、愛情を注がれ育てられたのです。幼子であったイエス様が両親とおん父の愛に満たされて成長されている様子が分かる箇所と言ってもいいでしょう。このことは、私たち一人ひとりに対しても同じようにおん父の愛と恵みによって成長しているのです。

 きょうのみことばは、そのように成長されたイエス様と両親が【律法】に習ってエルサレムに「過越の祭り」のために巡礼に行かれたのです。ユダヤ教では、「過越の祭り」「7週の祭り」「幕屋の祭り」という3つの大きな祭りがあって、この祭りの時には、男子はみな礼拝のためにエルサレムに上らなければならなかったようです。ですから両親は、イエス様が12歳になられたときもエルサレムに巡礼に行っていました。

 両親は、祭りの期間が終わって帰路に就かれましたが、イエス様がエルサレムに残られていたことに気づきませんでした。みことばでは、「しかし、両親はそれに気づかなかった。道連れの中にイエスはいるだろうと思い込み、彼らは1日の旅を終わってから……」とあります。ユダヤ教では、男子は13歳で成人となり、成人になると男性と女性が分かれて礼拝していたようです。みことばの中に【思い込み】とありますが、この【思い込み】を調べてみますと、「事実・真実でないことを、予断や偏見で堅く信じて疑わなくなる。」(新明解国語辞典)とあります。両親は、12歳のイエス様がどちらかの方にいるのではないかと信じていたのです。

 この【思い込み】によって両親は、1日が終わってイエス様がいないことにようやく気が付きます。両親はまだ、子どもであるイエス様がいなくなって怪我をしたり、人にさらわれたりしたのではないかと心配してきかきではなく捜し回られたのでしょう。みことばは、「親戚や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した」とあります。今なら、携帯電話で確認できるかもしれませんし、GPS機能を使ってどこにいるのか調べることもできますが、もちろん、その当時はそのようなものはありません。

 両親は、【3日の後】に神殿の境内でイエス様を見つけます。きっと、両親は喜びもあったでしょうが、疲れてその場に座り込んだのかもしれません。みことばの【3日の後】とは、イエス様が十字架上で亡くなられて【3日の後】と関係があるようです。このことは、イエス様が亡くなられ墓に入られ、そして【復活】されたイエス様に出会うという【3日の後】のようです。

 両親は、イエス様が神殿で学者たちの間に座り、彼らの言葉を聞き、質問をしておられるのをみます。みことばは「……人々はみな、その賢明な受け答えに驚嘆していた」とあります。イエス様は、「知恵に満たされた。神の恵みがその上にあった」(ルカ2・40)とありますように、学者たちの中に混じってもおん父の恵みと知恵によって話されていたのではないでしょうか。イエス様は、このような場面でも宣教されていたのです。

 マリア様は、そのような様を見て驚かれ「あなたは、どうしてこんなことをしたのですか。お父さまもわたしも心配して、あなたを捜していました」と叱ります。本当はイエス様が見つかって嬉しいはずなのに、ついつい叱ってしまうことがあるのは、私たちも同じなのではないでしょうか。イエス様は、マリア様のこの言葉を聞かれて「どうして、わたしをお捜しになったのですか。わたしは父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか」と言われます。この言葉は、私たちがイエス様を見失ったときに【どこに行けばいいのか】ということを伝えているのではないでしょうか。私たちは、自分の弱さによってイエス様を見失い、自分勝手に行動をしてしまう傾きがあります。そのようなとき、イエス様がおん父の家におられることに気づき、イエス様を見つけ出すことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. おん父の宴という種 年間第2主日(ヨハネ2・1〜11)

  2. 洗礼の恵みという種 主の洗礼(ルカ3・15〜16、21〜22)

  3. 主の公現という種 主の公現の祭日(マタイ2・1〜12)

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