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これってどんな種?

悔い改めるという種 四旬節第3主日(ルカ13・1〜9)

 きょうの典礼のテーマは、【悔い改める】ということではないでしょうか。ミサの集会祈願に「わたしたちの心があなたから離れてしまうとき、ひとり子イエスをとおしてわたしたちを呼び戻してくださいます」とあります。悲しことに私たちは、おん父へ向かうより、もっと楽しい方へ傾いてしまう弱さを持っています。時としてそのことが習慣化したり、麻痺したりと当たり前のように生活してしまう危険性もあります。イエス様は、そんな私たちにみことばを通して気づかせてくださっているのかも知れません。

 きょうのみことばの少し前で、イエス様は、集まってきた群衆に対して「どうしてあなた方は、何が正しいかを、自分で見極めないのか。あなたを訴える人と一緒に役人の前に行く時には、途中で和解するように努めなさい。」(ルカ12・57〜58)と言われています。イエス様が言われる、「自分で見極める」「途中で和解する」というのは、謙虚な心で自分自身を振り返らないとできないものです。イエス様は、群衆の高慢な心を指摘されておられるのではないでしょうか。

 そして、きょうのみことばの最初の言葉は「まさにその時」という一節から始まっていますので、イエス様が、「自分を振り返ってみなさい」と言われたその時に数人の人が来て、「ピラトがガリラヤ人の血を、彼らの犠牲(いけにえ)に混ぜた」ことをイエス様に伝えたのでした。イエス様は、この事件を通して「あなた方は、そのガリラヤ人たちが、……罪深い人々だったと思うのか。そうではない。あなた方に言っておく。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びる。」と言われ、続けて「シロアムの塔が倒れ、死んでいったあの18人は、……咎あったと思うのか。そうではない。あなた方に言っておく。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われます。

 イエス様は、ここで「罪深い人々だったと思うのか」と「咎があったと思うのか」と人々に対して言われます。彼らにとってこれらの出来事は、ただの【事件】であって、他人事として考え、【自分のこと】として見つめなかったのです。イエス様は、そのことを指摘するように「あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われているのです。イエス様は私たちに、「お願いだから、ただの事件、事故として片付けないで、あなた方自身を振り返ってみてください」と言っておられるのではないでしょうか。しかし、【悔い改める】と言われても、どのようにしたらいいのでしょう。私たちは、別に人を傷つけたり、盗みをしたりと犯罪を犯していません。いつも普通の日常を送っているのに何か【悔い改める】ことがあるのでしょうか、と思ってしまうかも知れません。きっと、イエス様の周りに集まった人々も同じような気持ちでいたことでしょう。

 イエス様は、そのような気持ちを持っている人たちに「自分を見極めないのか」(ルカ12・57)と言われておられるのです。自分の心の奥にある小さな傷、いつの間にかおん父から離れてしまっている私、自分が正しいと思ってしまう傲慢さなど、私の心の荒みを感じる【時】を持つことの大切さを、イエス様は、みことばを通して示されているのではないでしょうか。

 イエス様は、「ぶどう園にいちじくの木を植えた主人」の喩えを人々に語られます。このぶどう園の主人は、3年もの間いちじくの実を探しているのに、実がならないことを園の番人に訴え、「切り倒しなさい。なぜ、土地を無駄に使っているのか」と伝えます。このぶどう園の主人は、おん父のことを表しているようです。この【3年】というのは、日数のことではなく「完全性」とか「徹底性」という意味のようですから、いつもいちじくに実がなることを気に留められているおん父の愛を表していると言ってもいいでしょう。

 このいちじくの【実】というのは、私たちが【悔い改める】という気持ちのことを表しているようです。おん父は、私たちがご自分の所から離れるのではなく、近づいてくれるように、戻って来てくれるようにと願っておられます。そのため、いつも私たちのことを思って「早く【実】がならないかな」と【実】を探しておられるのです。

 園の番人であるイエス様は、「今年もう1年、このままにしておいてください。……もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言われます。イエス様のお答えは、おん父の3年ではなく、1年となっています。これは、急を要することを意味しているのではいでしょうか。同時に、イエス様は、私たちの側におられ、肥料という恵みをくださいます。

 私たちは、おん父とイエス様の愛によって生かされています。イエス様は、アガペの愛を持って私たちが【悔い改める】ことに気づくように恵みをくださっているのです。私たちは、自分の力では【悔い改める】ことはできません。ですから、「どうぞ【悔い改める】ことができるように、助けてください」と祈るだけでいいのです。イエス様は、そのような私たちの「小さな声」を聞かれ私たちをおん父の所に導いてくださいます。私たちはイエス様にお委ねして、自分の心を振り返る【時】を持つことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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