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これってどんな種?

タラントン(恵み)を活かすという種 年間第33主日(マタイ25・14〜30)

 私たちは、人から仕事を任されるとき、プレッシャーもありますが、新しいことに挑戦することへの期待と自分が認められ任されたという喜びが生まれるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、主人が僕たちに財産を預けて旅に出るという「タラントンの喩え」の場面です。この喩え話は、この箇所の前にあった、「愚かなおとめと賢いおとめの喩え」(マタイ25・1〜13)や「忠実な僕と悪い僕」(マタイ24・45〜51)と同じように、【メシアの再臨】について語られています。

 イエス様は、「天の国は、次のように言えよう。ある人が旅に出るにあたって、僕たちを呼んで、自分の財産を彼らに預けた」と話されます。イエス様は、たびたび【天の国は】という言葉を使って喩え話をされます。これは、おん父との【天の宴】を表していると同時に、私たちの生活の中での【おん父との深い繋がり(関係)】をも意味していると言ってもいいでしょう。主人は、僕たちの【能力に応じて】、それぞれ「5タラントン」「2タラントン」「1タラントン」と自分の財産を預けて旅に出ます。このことはイエス様が、私たちが生まれた時からすでにそれぞれ能力に応じて【タラントン】を預けているということを示しています。

 この喩え話の「ある人」というのは、イエス様のことを指していますし、「僕」というのは、私たち一人ひとりのことを指しています。【1タラントン】というのは当時の約16年分の賃金に相当する額です。このように聞くと、どうしても【お金】というイメージを受けますが、私たちに預けられたおん父からの【恵み】と言ってもいいでしょう。私たちは、その【タラントン】をどのように活かすかということで、おん父との関係を深めていくことができますし、それが【祈り】であり、【天の国】の状態なのです。

 イエス様は、「すると、ただちに5タラントンを手にした者は出かけていき、それで商いをし、さらに5タラントンをもうけた。」と言われます。「5タラントン」、「2タラントン」を預かった僕は【ただちに】出かけて行きさらに倍のタラントンをもうけます。彼らは、主人からそれだけ任され、信頼されているという喜びを持って「【ただちに】出かけて行って商い」を始めます。

 主人(イエス様)は、【タラントン】を与えるだけではなく、必ずその人の「商い(私たちの歩み)」に対しての必要な【助け】もくださるのです。私たちは、時々そのことを勘違いして、自分たちの歩みに失望したり、逆に「私はこんなこともできる」というような傲慢に気持ちになったりして【自我】というものが出てきます。私たちは、このような傾きに陥らないためにも、【振り返り】が必要になってくるのではないでしょうか。私たちの歩みが順調に行っている時だけではなく、落ち込んでいる時にも「ちょっと足を止めて」自分を振り返る時を持つことがイエス様との【祈り(糾明)】の時間となるのです。

 喩えでは、主人に対してそれぞれが自分たちの商いの成果を伝えています。これは、その人の歩みの【棚卸】と言えるのではないでしょうか。この【棚卸】が【祈り】であり、【振り返り】と言えるでしょう。この【棚卸】は、1度だけではなくたびたび行ってもいいのです。私たちは、この【棚卸】によってイエス様から気づきを与えられ、新たな【歩み】ができるのです。

 イエス様は「かなり日がたって、僕たちの主人が帰ってきて、……」と言われます。イエス様は、ご自分の【再臨】がおん父しかご存じではないのでいつくるのかを示していません。ですから、私たちは、イエス様がいつ来られても恐れることなく安心して預かったタラントンを使って行けばいいのです。イエス様は、私たちに「よくやった。善良で忠実な僕よ。……お前の主人と喜びをともにしなさい」と言って【おん父との宴】に招いてくださいます。

 さて、もう1人「1タラントン」を預かった僕はどうだったでしょうか。彼は、預かった1タラントンを「商い」をせずに、出かけて行き土を掘り、主人の金を埋めてしまいます。当時、預かり物をした時穴を掘って隠せば、それが盗まれても賠償する義務がなかったそうです。彼は、主人から預かった大切な「1タラントン」が盗まれないように一番安全な方法を選んだのでした。彼は、主人から「1タラントン」預かったことへのプレシャーに押しつぶされ、活かすことができず土に埋めてしまったのです。主人は、彼に対しても愛情を持って【能力に応じて】「1タンラント」を預けたのですが、彼は主人の気持ちに気づけなかったのです。

 主人は、彼に「怠け者の悪い僕よ。……お前は知っていたというのか。……役立たずのこの僕を、外の闇に投げ出せ」と叱りつけます。なぜ、彼はこのように叱られたのでしょう。それは、せっかく預かった「1タラントン」を何も使わなかったからです。イエス様は、私たちが「タラントン」を残念ながら罪によって増やす事ができずにいたとしても、「よくやった」と褒めてくださるはずです。

 私たちは、一人ひとりの能力に応じて預けてくださったおん父からの【タラントン(恵み)】を無駄にすることなく、三位一体の主に信頼して日々の生活を歩むことが出来たらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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