書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

最初の宣教師たち

カトリック・プレスセンター――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(29)

 すでに大森時代から、そして王子時代にも、パウロ神父は東京教区委員会の管理の下に「カトリック中央出版部」という組織があることを知っていた。それは英語で「カトリック・プレスセンター」と呼ばれていた。彼はすぐにこの組織と住所を知りたいと思い、中央出版部の部長、田口芳五郎司教と若い著作家でもあった志村辰彌神父とすぐ親しくなった。(田口司教は後に大阪教区大司教、次いで枢機卿になった。志村神父は引き続き、新聞や書籍の執筆に精力的に携わっていた。志村神父は、一九九七年七月三十日に帰天した。)

 私たちはパウロ神父が、定期的に訪れていたカトリック中央協議会から帰るたびに漏らしていた、「マスコミ宣教の使徒」としての希望をうまく伝えることができない。彼は修道院に戻ってくると、いつも繰り返してこう言うのだった。「あれこそが本当の私たちの仕事だよ。あれこそが本当に私たちの会の使徒職なのだよ。主よ、いつになったら私たちは、ぺンと活字を使って福音を宣ベ伝えることができるのでしょう?!」と。

 パウロ神父のこの言葉と、彼がそれと似た言葉を始終語っていたということは、私が証人である。こうした言葉からも、彼がどれほど出版による使徒職を熱望していたかが容易に推測できるであろう。

 しかし、パウロ神父は出版を通した私たちの会の使徒職を強く渇望しながらも、たいへん賢明に行動した。そしてそれから数年の後に、彼はあらかじめ定めていた目標を、一歩一歩、着実に達成していった。そしてパウロ神父と田口司教、志村神父の互いの友情は、その後も変わることなく長く続いたのである。

 小教区の仕事が彼の時間の大部分を占めていたにもかかわらず、パウロ神父は熱心に「カトリック・プレスセンター」に通い続けていた。時には「出版部」から小さな仕事を任されたが、それは彼にとってほんの「手始め」にすぎなかった。彼は与えられた機会を生かすことを心得ていた。請け負った小さな仕事を通して、熱心さ、高い能力、出版事業へのあくなき情熱を証明し、その魅力ある人柄を次第に周囲に示し始めた。

 田口司教は、パウロ神父が出版の分野において有能にして適任の人物であること、彼が「出版の使徒職」のための特別な召命を持つ宣教師であることをいち早く見抜き、彼にさまざまな仕事を引き受けるように提案された。こうして相互の友好的な協働は続いた。

 やがて日本のカトリックにおける懸案事項を討議するための「全教区長会議」が開催され、そこでは「カトリック・プレスセンター」の指導監督や責任に関する種々の案件も議題として上がっていた。東京大司教がパウロ神父を呼んで、彼に意見を求めた。

 その時、パウロ神父は「賽を投げた」(決断した)。彼ははっきりと「カトリック・プレスセンター」の全責任を引き受けることを明言したのである。

 大司教は彼に強調された。

 「でも、プレスセンターは今、借金で首が回りませんよ!」

 そこで、パウロ神父は答えた。

 「大司教様、プレスセンターとそれに関するすべての事柄をお引き受け致します。条件はただ一つ、それは、聖パウロ修道会が最善と思えることを行えるよう認めてくださることです。もちろん大司教様のご指導のもとで。」

 こうして「カトリック・プレスセンター」は、日本名「中央出版社」として、聖パウロ修道会の会員たちの手に委ねられた。そしてその全責任はパガニーニ神父に任せられ、彼は現在に至るまで、その責任を見事に果たし続けている。

 目的を完全に達成したにもかかわらず、パウロ神父がこの成果を誇るようなことはなかった。その後も彼は、この中央出版社がますます輝かしい成果を上げられるよう(戦前も戦後も)、彼の全精力をこの事業にささげた。

 これはパウロ神父が五十歳の時、聖パウロ修道会最初のカトリック・ラジオ局を設立する前に達成した、社会的コミュニケーションの分野における最大の「功績」であった。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP