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カトリック入門

「カトリック入門」 第69回 江戸の殉教者【動画で学ぶ】

<歩み>
*原主水は、下総(しもうさ・現在の千葉県)の臼井(うすい)城主の嫡男として生まれる。父は北条家に仕え、豊臣秀吉との小田原の合戦に参戦しますが敗北し、江戸で切腹。
*父を亡くして主水は小姓(こしょう)として徳川家康に仕え、京都の伏見へ行きます。主水は背が高く、勇猛な武将として名を馳せます。その間、イエズス会の神父に出会い、1600年に大阪でモレホン神父から洗礼を受けます。

<問題>
*1603年、徳川家康が政権を握り、主水は20歳の若さで走衆(はしりしゅう・将軍警護役)の頭となり、家康に大事にされます。やがて家康は駿府城(静岡)を構え、江戸城は二代将軍の徳川秀忠に譲ります。主水も家康に従って駿府城へ移り、家康の警護にあたります。しかしその間、直接の原因は分かりませんが、主水は教会を離れていきます。原因の一つは女性問題があったと言われます。「密通の沙汰あり」「御殿に勤める女の一人をたぶらかした」と。恋仲にあった奥女中と深い関係になったのでしょう。
*1612年、家康は全国に先駆けて、キリシタン禁令を発布します。これは天領、旗本、奥女中などに対してでした。ディエゴ小笠原、大奥にいたおたあジュリアなどの信者が含まれています。この時、主水は行方をくらまし、一時期、耕雲寺に隠れていました。やがて逮捕され、駿府に連行され、安倍川の河原で両手の指を全部切られ、額には焼印を押され、両足のももの筋を切られました。家康の走衆の頭として名声を馳せていたかつての栄光も失い、ハンセン病者の施設に運ばれました。かつて恋仲にあった奥女中は斬首、逃亡中にかくまってくれた恩人も斬首。愛する友人、愛する女性、恩人など、すべてを失った時、初めてキリストの本当の十字架が見えてきました。

<回心>
*いざり歩きする主水は、十字架上で嘲笑されるキリストの姿が目に浮かんだことでしょう。彼はやがてフランシスコ会が奉仕していた浅草のハンセン病者の施設で生活し、フランシスコ会の影響を強く受け、フランシスコ会の第三会の「帯(コルドン)の組」の頭になります。
*不自由な体ではあっても、フランシスコ会の第三会員として生涯を神にささげ、フランシスコの貧しさ、単純さ、十字架を思う生き方に学び、時とともに江戸キリシタンの中心人物になります。

<殉教>
*1623年、主水のかつての部下が銀300枚の賞金に目がくらみ、町奉行に隠れ家を密告します。こうしてデ・アンジェリス神父、ガルベス神父と共に伝馬町牢屋敷に護送されました。そのころ、二代将軍秀忠は家光に三代将軍として将軍職を譲り、将軍職任官を祝うために全国の諸大名が江戸に集まっていました。家光は施政方針演説の中で、「私はキリシタンを徹底して認めない」と語ります。こうして家光は、諸大名に禁令を通告し、捕らえたキリシタンを火刑に処するように命じます。
*1623年12月4日、江戸の牢屋敷から日本橋、銀座、新橋を引き回され、品川に近い札の辻で宣教師と信徒総勢50名が火刑に処せられました。家康の走衆の頭として名をはせた華々しい栄誉は失せていましたが、人間の弱さ、悲哀を味わった殉教者です。

*深い傷を負った人生ではあっても、十字架の道に光を見いだしていく姿に現代への深いメッセージがあります。

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