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これってどんな種?

今の幸いという種 年間第6主日(ルカ6・17、20〜26)

 私たちは、人それぞれ【幸せ】の基準は違うことでしょうが、「不幸になるよりは幸せになりたい」と望んでいます。きょうのミサの『集会祈願』で司祭は「救いを求めて集まるわたしたちを顧み、まことの幸せを教えてください」と唱えます。改めて「私(たち)の幸せって何なのか」と言うことを振り返ってみるのもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が「3つの幸せ」と「3つの不幸」を人々に伝える場面です。みことばは「イエスは使徒たちとともに山を下り、……」というところから始まっていますが、きょうのみことばの少し前の箇所に「イエスは祈るために山に行き、夜通し神に祈られた。夜が明けると……」(ルカ6・12)とあります。イエス様は、大切なことをなさる時にはいつも祈られます。この時は、使徒たちを選ばれるために山に上って祈られています。そして、イエス様は、12人の使徒たちを選ばれ山を下りてこられたのでした。

 イエス様と弟子たちは、どのような気持ちで山から下りて来たのでしょう。弟子たちは、直接イエス様から声をかけられた人、または、イエス様の素晴らしいみ業、教えを聞いて従った人たちでした。そして、いつの間にかイエス様と寝食を共にしていたのでしょう。彼らは、イエス様が夜通し祈られ、自分たちの名前を一人ずつ呼ばれ、【使徒】と名付けられたことを誇りと思い、喜びながらこれから宣教すること、または、メシアであるイエス様と共に新しいイスラエルを作ることなど思い描いていたのかもしれません。

 イエス様と弟子たちが山から下りて来て平な所にお立ちになられた時には、大勢の弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ティルスとシドン海岸地方から来た、おびただしい民の群れがいたのです。想像して見てください。すでに、イエス様の噂は人々の耳に入っていましたので、彼らのなかには、何か素晴らしい教えを聞けるかもしれないと期待した人たち、病気の人たち、汚れた霊に悩まされた人たちがいたことでしょう。そのような場面に、【使徒】に任命された12人の弟子たちと共にイエス様が来られて平地に立たれたのです。

 みことばは、その時の様子を「群衆はみな、イエスに触れようとひしめき合っていた。それは、すべての人を癒す力が、イエスからでていたからである」(ルカ6・19)とあります。きっと、イエス様のところに集まった人のなかには、「イエス様に触れることはできないまでも【使徒】たちに触れたら癒やされるかもしれない」と思った人もいたのかもしれません。いっぽう使徒たちは、人々の熱気や興奮を受けて自分たちも特別な弟子になった気分に酔っていたことでしょう。

 そんな様子をご覧になられたイエス様は、「弟子たちに目を注いで『貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである。……」と仰せになられます。弟子たちやそこに集まった人たちは、イエス様のこの言葉を聞いて「えっ、何を教え始めたの、逆ではないのかな」と思ったことでしょう。みことばの「弟子たち目を注いで」という言葉に注意をしますと、イエス様は、群衆の熱気と興奮に煽られた【使徒】たちが、自分たちも特別な力を持っていると驕り高ぶることへの注意を促そうと思われたのではないでしょうか。これは、本来ですと三位一体の神からの恵みであるのにも関わらず、あたかも自分の能力であるかのように思ってしまう弱い私たちにも当てはまるのかもしれません。

 イエス様が言われる「貧しさ」は、金銭的、物質的な【貧しさ】ではなく、自分の弱さ、罪深さのような「人の力ではどうしようもできない心の貧しさ」のことを指しているようです。シモン・ペトロが初めておびただしい魚が捕れた時に言った「わたしは罪深いものです」(ルカ5・8)と同じ感覚と言ってもいいかもしれません。イエス様は、この【貧しさ】を持ち続ける人に、「私の恵みで満たしてあげますよ。だから『神の国はあなたのもの』なのですよ」と言われているのではないでしょうか。それに続く、「飢えている人、泣く人」も同じようにイエス様からの恵みによって【満たされ】【慰められ】て【幸い】となることができるのではないでしょうか。

 さらにイエス様は、すでに「富んでいる人」「満腹している人」「笑っている人」は【不幸】である。こちらの人々は、【この世的】な「富、満足、喜び」で満たされている人たちのことではないでしょうか。彼らは、もうすでに自【分の力】で築いた物質的な富や力に固執するだけではなく、三位一体の神の恵みをさえも拒否しているのです。

 ルカ福音書の【幸い】には、マタイ福音書(マタイ5・3〜12)と違って短いし、【不幸】までも入っていますし、【今】という言葉も入っています。それは、私たちの【今(この瞬間)】という意味が含まれているのではないでしょうか。私たちの心の中には、「貧しい私をいつくしんでください」とイエス様に近づこうとする気持ちと、「私が……」というエゴの部分が住んでいるのではないでしょうか。私たちは、【今】の状態は、どちらなのかと振り返りながら歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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