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カトリック入門

「カトリック入門」 第48回 マルコとマルコ福音書【動画で学ぶ】

序)

*マルコ福音書は、冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の始まり」とあるように、ナザレのイエス・キリストがまことの神の子であり、また救い主であることを書き記した聖なる福音書である。

 写本や文献から「マルコによる」という表題が付けられていて、この福音書が「マルコ」という人物によって書かれていることは一般に認められている。しかし、マルコという人物については、種々の説がある。

  ①ローマにおいてペトロの弟子として働いていたマルコ(一ペト5・13)

  ②マルコと呼ばれているヨハネ(使徒12・12、15・37)。この人物は、パウロとバルナバの小アジア宣教についていった人で、時として「ヨハネ」と呼ばれ(使徒13・5)、また時としては「マルコ」と呼ばれている(使徒15・39)。

   新約聖書中のマルコは、使徒言行録のマルコも、ペトロとパウロの手紙の中のマルコも、同一人物であるとみなすなら、マルコは最初ペトロの教えを受け、次いでパウロに従い(44~46年)、その後(61~63年頃)ローマで再びパウロの協力者となり、またペトロの通訳として(63~64または67年)福音活動に献身したと思われる。

  ③パウロが言及する「マルコ」と使徒言行録に登場する「ヨハネ・マルコ」が同一人物であるかどうかも定かではない。今では、マルコ福音書の著者の人物像は不明とされている。

1)マルコについて

*マルコはユダヤに生まれ、幼い時に父を亡くし、信心深い母に育てられた。広い邸宅は、使徒たちやエルサレムの信者の集会所として使われ、祈りなどを行った。

42年、ペトロは天使から奇跡的に牢獄から抜け出すと、この家を訪ね、みんな喜びに満たされた。マルコの母はかなり裕福な婦人で、屋敷の二階の大広間は初代教会の中心をなしていた。古い伝承によれば、最後の晩餐、キリストの復活後、弟子たちに出現した場所、聖霊降臨の場だったといわれる。

彼は聖ペトロから洗礼を受け、「ヨハネ」という名前のほかに「マルコ」というローマ式の名前をもっていた。バルナバはマルコのいとこにあたる。

やがてパウロに出会い、パウロの宣教旅行が始まる。アンティオキアの長老たちはパウロとバルナバを第一回宣教旅行に派遣した。バルナバは若いいとこのマルコを連れていく。45年頃であった。しかし、宣教をめぐって問題が生じ、パウロと言い争いになる。その結果、マルコは一人エルサレムに帰り、パウロとバルナバは二人で宣教を続けた。

48年、第一回宣教旅行から帰ったパウロは、エルサレムに集まった使徒たちに経過を報告。49年に再度宣教旅行を計画した。同伴者としてパウロはバルナバの協力を求めた。ところが、バルナバはマルコを連れて行くように願ったが、パウロは拒絶。お互いに衝突して、パウロはシラスを連れて小アジアに赴き、バルナバはマルコを連れてキプロスを目指した。二人は宣教の熱意に燃え、キプロスだけではなく北アフリカの開拓者となり、マルコはアフリカのアレクサンドリアに教会を創立し、初代司教となった。マルコはギリシア正教とコプト正教会で初代アレクサンドリア総主教とされている。

62年頃、マルコはローマにいたといわれ、ペトロの通訳を務め、さらにパウロにも再会したといわれる。63年頃、パウロから使命をおびて小アジアのコロサイへ派遣されたといわれる。

*マルコは、ローマの信徒たちの希望に応じ、ペトロが見聞した主のみことばや行いをまとめてマルコ福音書を記した。この書の目的は、ローマの信徒たちにキリストが人となった神であることを説明するためでもあった。

*67年、ローマ皇帝ネロの迫害でパウロとペトロが殉教し、ローマを去ってエジプトのアレクサンドリアへ行った。

改宗者が増えていったが、反対者の恨みを買うことになった。セラピスという偶像の祭日、マルコは異教徒に捕らえられ、町中を引き回され、血染めの殉教を遂げた。墓は始めアレクサンドリアにあったが、北アフリカがイスラム教徒に支配され、828年、十字軍がマルコの聖遺物を奪い、ベネツィアに運んだ。こうして、マルコはベネツィアの守護の聖人となった。ベネツィアの大聖堂は、サンマルコ大聖堂と呼ばれている。

2)マルコ福音書

*マルコ福音書が現存する正典四福音書中、最古のもの。

*マルコ福音書はローマで書かれたといわれる。その裏付けとして、他の福音書に比べ、頻繁にラテン語が用いられている。例えば、「レギオン」(5・9)、「スペクラトール(衛兵)」(6・27)、「デナリウス」(6・37)、「チェントゥリオ(百人隊長)」(15・39)など。マルコ福音書はパレスチナのチリに不案内な著者が、地理を含めてユダヤ教の文化、伝統とは疎遠な読者に向けて、ローマで執筆したものであると説明されてきた。

 しかし、ローマの支配下にあった当時、ラテン語が帝国内に広く流布していたことは十分に考えられる。したがってラテン語の使用にローマ成立の根拠を見るのは妥当とも言えない。

*マルコ福音書の中心はキリスト論に集中する。1・1の「イエス、キリスト、神の子」という語順は、イエスがキリストすなわちメシアであり、それのみならず、神の子であるという洞察がある。

前半部分はイエスがメシア・キリストとして認識され、弟子を代表してペトロのメシア告白(8・29)で終了する。後半部分(8・31~16・8)は、受難、死、復活に向かうイエスの歩みを展開する。それはイエスがメシアであることの意味を明らかにする歩みである。マルコのキリスト論は、十字架の神学を本質とする

*「マルコス福音書を読む」という本が発行され、そこでマルコ福音書の書き方はサンドイッチ型。

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