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これってどんな種?

信じるという種 復活節第2主日(ヨハネ20・19〜31)

 今年の復活徹夜祭では、修道院で久しぶりに洗礼式が行われました。洗礼式の中でその方が、信仰宣言される時に司祭の呼びかけに「信じます」と言われた言葉を思い出し、信仰生活の歩みの中で「この『信じます』という言葉が信仰を育てていくのだな」と、その時のことを思い改めて【信じる】ことの恵みを感じています。

 きょうのみことばは、ペトロともう一人の弟子が「空の墓」を見てイエス様が復活したことを【信じ】、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会った日の、夕方にイエス様が弟子たちの所に現れる場面です。イエス様が墓からいなくなったことを知った弟子たちは、ユダヤ人たちが自分たちの所に来るのではないかと思い恐れて、家の戸の鍵をことごとくかけていました。彼らの中では、3日前にイエス様がユダヤ人たちに捕らえられ、十字架に付けられた場面を思い出し、喪失感と不安、そして恐怖に包まれていたのかもしれません。

 そのようなときに、イエス様が現れ、彼らの真ん中に立って「あなたがたに平安があるように」と言われます。ユダヤ人たちの挨拶は、「シャローム(あなたがたに平安があるように)」と言いますが、復活されたイエス様が言われた「シャローム」という挨拶は、「わたしはあなた方に平和を残す。わたしの平和をあなた方に与える。わたしは世が与えるように、これを与えない」(ヨハネ14・27)と約束された【平和】を示されているようです。

 弟子たちは、イエス様の手と脇腹の傷を見て、本当に復活されて目の前におられることを喜びます。イエス様は、彼らの喜んだ顔を見て安心されたことでしょう。そして再び「あなた方に平和があるように」と言われて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」と言われ、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦され、あなた方が赦さないなら、赦されないまま残る」と言われます。

 イエス様は、弟子たちが復活したご自分を見て喜んだ(信じた)ことを確認された後に、再び「あなた方に平和」と言われ弟子たちに「宣教への【派遣】の使命」をお与えになられます。さらに「息を吹きかけられ【聖霊】」をお与えになられ「罪の赦し」の権限をお与えになられたのです。このことは、私たちがいただく「ゆるしの秘跡」と言ってもいいでしょう。それと、同時に「私たち自身が人を赦す」ということにもつながるのではないでしょうか。イエス様は、私たちが「人を赦す」時に、【聖霊】の助けがなければ真に【赦す】ことができないことをご存知だったのかもしれません。そして、私たちがイエス様の【平和】で満たされた時に、【人を赦す】ことができるのではないでしょうか。

 トマスは、イエス様が弟子たちに現れた時にそこにいませんでした。もしかしたらトマスは、「わたしたちも行って、主とともに死のう」(ヨハネ11・16)と言ったことが心に引っかかっていて、他の弟子たちに顔を合わせることができなかったのかもしれません。そんなトマスに弟子たちは「わたしは主を見た」と言います。きっとトマスは、弟子たちの言葉を聞いて「そんなはずはない」と思ったのではないでしょうか。それで「わたしはその手に釘の跡を見、……決して信じない」と言います。トマスは、「主とともに死のう」と言ったこと同時に、他の弟子たちが主を見て喜んでいることに、多少の嫉妬心を抱いて【意固地】になっていたのかもしれません。

 イエス様は、再びその8日後に弟子たち現れ「あなた方に平和があるように」と言われ、トマスに「あなたの指をここにあてて、わたしの手を調べなさい。……信じないものではなく、信じるものになりなさい」と言われます。トマスは他の弟子たちと同じように自分にも現れ、「主とともに死のう」と言ってイエス様と一緒に死ねなかったことを赦して下さったことを感じ「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白をします。イエス様は「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである」と言われます。

 「信じることができない」ということは、トマスのように【意固地】の状態であり「自我に執着している状態」なのではないでしょうか。しかし、「信じる時」は、「自我を解放した状態」と言ってもいいでしょう。そこには、愛があり、真の自由と平和があるのではないでしょうか。それと同時に「イエス様への全幅のお委ね」があると言ってもいいでしょう。

 ペトロは「イエスの名が、その名を信じる信仰の故に、あなた方が、今見ており知っているこの人を、強くしたのです」(使徒言行録3・16)と言っているように、私たちは、【信じる】ことで、私たちの【信仰】を強くし、イエス様が下さった【派遣】の使命を果たすことができるのではないでしょうか。みことばは「イエスが神の子メシアであることを、あなた方が信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである」と示しています。私たちは、いま新たに洗礼を頂いた時に宣言した【信じます】という言葉を振り返り、復活したイエス様と共に信仰の道を歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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