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これってどんな種?

主の憐れみという種 年間第24主日(ルカ15・1〜10、〔32〕)

 私たちは、「主よ、あわれみたまえ。キリスト、あわれみたまえ」とミサの中で唱えます。私たちは、回心の祈りの中で自分たちの罪深さを認め、おん父とイエス様に憐れみを願う祈りです。しかし、もう少し深く掘り下げていくと、おん父とイエス様がまず、私たちを【憐れんで下さった】ことの恵みへの感謝の祈りと取れるのではないでしょうか。私たちはおん父とイエス様からの【憐れみ】を受けたことへの感謝を捧げながらミサを続けて行くという深い意味があるような気がいたします。

 きょうのみことばは、イエス様が『見失った羊』『失くした銀貨』そして『放蕩息子』のを使っておん父の【憐れみ】を伝えられる場面です。イエス様は大勢の群衆に『塩の喩え』を話された後「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14・35)を言われます。イエス様に付いてきた群衆の中には、ファリサイ派や律法学者たちもいたようですし、徴税人や罪人と言われている人もいたのでしょう。

 みことばは「徴税人や罪人たちがみな話を聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた」という節から始まっています。徴税人は、ローマに税金を納めるためにユダヤ人たちから徴収しながら幾らかのお金を多く騙し取り自分たちのものにしていました(ルカ19・8参照)。また、罪人と言われる人の中には、犯罪を犯した人もいたかもしれませんが、律法を守ることができない弱い立場の人も多くいたことでしょう。彼らは、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉に促されてイエス様のもとに近寄って来たのでした。

 きっと、イエス様の話を聞いて「今までのままではいけない」と気づいたのではないでしょうか。イエス様の話は、人々の中に染み込み、心を揺さぶり、おん父のところに立ち返ろう、と思い起こすような恵みがあったのかもしれません。この立ち返ろうとする力は、彼らにみことばと同時に聖霊の恵みがあったからではないでしょうか。

 しかし、ファリサイ派の人々や律法学者は、イエス様のもとに徴税人や罪人たちが近寄ってきたことに対して「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやきます。彼らは、イエス様が罪人を【受け入れる】という言葉を口に出し、イエス様がご自分の所に来る人は誰であれ、その人が罪人であっても【受け入れる方】であると認めたのです。イエス様は、私たち一人ひとりが善人であっても罪人であっても、どんな人であっても、ご自分の所に来る人を【受け入れて】くださるお方なのです。

 逆に、ファリサイ派や律法学者たちは、徴税人や罪人がイエス様の所に近寄って来たことに不平を口にします。不平は、自分の常識、価値判断から離れた物事に対して起こってきます。彼らは、いつも自分たちが正しいと思い、その価値判断に添わないと不平を口に出してしまうのです。イエス様は、そのような彼らの価値判断に対して「あなた方は不幸だ。……あなた方自身が入らないばかりか、入ろうとする人々を妨げてきた」(ルカ11・52)と言われています。

 さて、イエス様は、彼らに対して、三つの譬え話をされます。まずイエス様は、100匹の羊を持っている羊飼いが、その中の1匹を見失った、という譬え話をされます。イエス様は、羊飼いが羊を見つけ出すと【喜んで】肩に乗せ、家に帰り、友人や近所の人を呼び集めて「一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから」と言うと話されます。羊飼いは、羊が自分勝手に群れから離れて行ったにも関わらず「1匹を見失った」と自分の責任だと思っています。

 また、10枚のドラクメ銀貨をのうち、1枚を失くした女性の譬え話も「そのうちの1枚を失くしたなら」というように、ここでも自分が【失くした】と描かれています。そして、同じように見つけ出すと「一緒に喜んでください。なくしたドラクメ銀貨を見つけましたから」と友達や近所の人に言っています。この二つの譬え話の中の「羊飼い」や「女性」、次に出てくる『放蕩息子』の「父親」は、おん父やイエス様を指しているのではないでしょうか。おん父は、ご自分に落ち度がないにも関わらず、離れて行った人に対して心を悩まされ、ご自分のもとに戻った人を【アガペの愛(憐れみの心)】を持って【受け入れ】、周りの人を呼んで一緒に喜びを分かち合われるお方なのです。

 もちろん、おん父のもとに戻った人もおん父のアガペの愛に包まれ平安と感謝を味わうことでしょう。パウロは、「わたしを強めてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝します。……憐れみを受けました。……わたしたちの主の恵みが、わたしに溢れるほど与えられました」(1テモテ1・12〜14)と伝えています。パウロは、かつてイエス様を信じる人に対して迫害するという罪を犯した人だったのです。しかし、三位一体の神の【憐れみ】によって回心の恵みをいただきました。パウロはそのことに対して「わたしたちの主イエス・キリストに【感謝】します」と言っているのです。

 私たちは、三位一体の神の【憐れみ】によって回心へ向かうことができたことに素直に感謝することができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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