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これってどんな種?

キリストの体に……という種 キリストの聖体(マルコ14・12〜16、22〜26)

 私たちの体は、食物によってできていると言ってもいいでしょう。良い食べ物を食べることによって健康な体になり、逆に、悪い食べ物だとそれなりに体に歪みをもたらします。洗礼の恵みをいただいている私たちは、これまで、キリストの体である【聖体】を何回いただいているでしょうか。私たちの体は、「キリストによってできている」と言ってもいいでしょう。パウロは、「わたしの子らよ、キリストがあなた方のうちに形作られるまで、再び、わたしは産みの苦しみを味わっているのです。」(ガラテヤ4・19)と言っていますように、私たちも【キリストの体】によって「形作られる」ことを意識できたらいいですね。

 きょうのみことばは、【最後の晩餐】の席でイエス様が「聖体を制定」される場面です。みことばは、「過越の小羊を屠る除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスに尋ねた」と言う一節から始まっていります。この過越祭は、ユダヤ人にとって大切な祭りの一つで、モーセを通して神がイスラエルの民をエジプトから救ってくださったことを感謝する祭りです。しかし、この年の過越祭はイエス様にとっても、祭司長や律法学者にとっても意味があるものでした。祭司長や律法学者たちはイエス様を捕らえて、殺そうと謀っていました(マルコ14・1〜2参照)。

 また、イエス様ご自身もベタニアでの食卓で1人の女性に香油を塗ってもらっているときに「埋葬に備えて、あらかじめわたしの体に油を注いだのだ。」(マルコ14・8)と言われていています。イエス様は、ご自分が十字架に掛けられることをご存知だったのです。まさに、そのような時に、イエス様はご自分の体を「屠られる小羊」としてこの「過越祭」を弟子たちとともに迎えられたのです。

 弟子たちは、そのような時に当たり前のように「わたしたちは過越の食事を用意するために、どこに行ったらいいのでしょう」と尋ねます。イエス様は、【最後の過越祭】となるこの「食事の用意をする」という、彼らのこの言葉をどのような気持ちで受け入れられたのでしょうか。イエス様は、「町に行きなさい。そこで、水瓶を担いだ男に出会うであろう。その人について行き、その人が入っていく家の主人に言いなさい、……」とまるで見えているように言われます。

 当時、男性が水を運ぶというのは、「水瓶」ではなく「皮袋」を使っていたようです。ですから、弟子たちは、「水瓶」を持っている男性を見つけるのが簡単にできたのです。もしかしたら、彼は神の介入によって「『皮袋』ではなく『水瓶』を持って行きなさい」と言われたのかもしれません。さらに、この祭りの時期は、イスラエル中からエルサレムに巡礼に来る人のために、自分たちの家の部屋を巡礼者のために解放していたのです。それで、弟子たちも他の巡礼者と同じように、過越祭のための食事の準備ができたのです。

 イエス様は「『わたしが弟子たちとともに、過越の食事をする部屋はどこか、と先生が言っておられます』。……そこにわたしたちのために用意しなさい」と言われます。イエス様が遣わした2人の弟子たちは、ペトロとヨハネのようです。彼らは、「最後の晩餐」を準備するために遣わされたのですが、不思議なことにイエス様を「知らない」と言った弟子と、イエス様が十字架に掛けられたときにマリア様と一緒にいた弟子が選ばれたのでした。このことも、何かイエス様が私たちに残しているメッセージなのかもしれません。

 イエス様は、弟子たちとともに過越の食事をしているときに、「パンを取り、賛美をささげて、これを裂き、弟子たちに与えて『取りなさい。これはわたしの体である』」と言われます。私たちは、このイエス様の言葉によって【聖体】が制定されていることを知っていますし、ミサの中でも司祭が唱えているのを耳にしています。しかし、よくこのみことばを観てみるとイエス様は、ご自分の体である「パンを裂かれた」のです。そして、それを食べるように弟子たちにお与えになられたのです。そしてこのことは、今も司祭の手を通して私たちもいただいているのです。

 イエス様は、杯も同じように取られ、弟子たちに与えられ「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。」と言われます。ヘブライ書には、「雄山羊と子牛の血によらず、ご自分の血によって、……汚れない犠牲として、ご自分を神におささげになったキリストの血は、わたしたちを生ける神に仕えるものとするために、……」(ヘブライ9・12〜14)とあります。イエス様は、ご自分の体だけではなく、【血】を使われて私たちの罪を贖ってくださったのです。それは、アダムとエバが犯した罪によっておん父から離れて行った私たちが、再びおん父のもとに戻ることができるためだったのです。

 私たちは、司祭を通して捧げられているミサの中で【聖体】をいただいています。私たちは、イエス様がご自分体を裂かれ、さらに、血を与えてくださった【聖体】をいただいています。きょうの典礼を通して改めて【聖体】を意識して、わたしたちの体をイエス様でいっぱいにすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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