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これってどんな種?

切符を渡すという種 待降節第2主日(マタイ3・1~12)

 私たちにとって【洗礼】とはどのようなものなのでしょうか。私は幼児洗礼で、子どもの頃から当たり前のように教会に行っていまし、改めて自分にとって【洗礼】とは何だろう」と思う機会がありませんでした。ただ、【洗礼】によって、多くの恵みをいただき、今の【私】がいるということは強く感じます。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネが荒れ野で人々に洗礼を授ける場面です。イスラエルの人々は、長い間救い主メシアが来られることを待ち望んでいましたし、救い主が来られる前にエリアが再び現れると信じていました。そのような彼らにとって洗礼者ヨハネは、エリアの再来ではないかと思わせるものでした。

 みことばは、「そのころ」という言葉で始まっています。この言葉は、「いつ」という意味ではなく、まさにイスラエルの人々にとって早くメシアに来て欲しいという思いが頂点に達した時と言ってもいいでしょう。ちょうど「そのころ」洗礼者ヨハネが現れ、荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えていたのでした。洗礼者ヨハネの言葉は、メシアを待ち望んでいた人々の心の中に喜びと希望を与えたのではないでしょうか。

 洗礼者ヨハネの教えは、イザヤの預言にあるように「荒れ野で叫ぶ者の声がする『主の道を整え、その道を真っ直ぐにせよ』」と言われているそのものだったのです。人々は、洗礼者ヨハネの教えを素直に受け入れ、今の自分たちの信仰の姿に違和感を持ち、「何とかしなければ」と思って彼のもとに集まってきたのではないでしょうか。それほど、洗礼者ヨハネの教えは、人々の中に浸透し、多くの弟子ができるほどになっていたのです(ヨハネ1・35〜38参照)。

 洗礼者ヨハネの教えは、エルサレムやユダヤ全土まで広まっていました。当時は、今のように、テレビやラジオ、またはインターネットなどのようなメディアがない時代でした。それなのに多くの人々が洗礼者ヨハネの所に集まって来たのです。洗礼者ヨハネは、自分からいろいろな所に宣教に出かけて教えを解くというのではなく、ただひたすら人々があまり来ないような【荒れ野】で生活をしていたはずです。それでも、彼の「悔い改めよ。天の国は近づいた」という教えは、ユダヤ全土まで広まったのでした。このことだけ見ても、人々がいかにメシアを待ち望んでいたかを思うことができます。

 洗礼者ヨハネの教えは、ファリサイ派とサドカイ派の人々にまで届いていました。彼らにとってのメシアは、自分たちの魂の救いではなく、政治的、宗教的な優位性を持つためだったのかも知れません。洗礼者ヨハネは、そんな彼らに対して「蝮の子孫よ、来たるべき怒りから逃れるように、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しい言葉をかけます。洗礼者ヨハネの「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉は、【洗礼】を意味しているようです。

 彼らは、「われわれの父はアブラハムである」というプライドを持っていましたから、「もう救われている。悔い改める必要もないし、洗礼を受けなくてもいい」と思っていたのかもしれません。洗礼者ヨハネは、彼らに「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを造ることがおできになる。」と言います。洗礼者ヨハネは、「われわれの父はアブラハムである」という変なプライドを持つより「悔い改めて、洗礼を受けること」、「謙遜になること」を彼らに伝えようとしていたのでしょう。

 洗礼者ヨハネは、「だから善い実を結ばない木はすべて切り倒され、火に投げ入れられる」と言います。ここでも彼は【実】という言葉を使っています。この【実】とは、洗礼を受けた後の生活を意味しているのかも知れません。このことは、私たちにも響いて来るのではないでしょうか。もし、私たちが【洗礼】を受けたということで安心していると、洗礼者ヨハネは、私たちにも同じような言葉をかけることでしょう。

 私たちは、日々の生活の中で【善い実】を結ぶように意識することが大切なのではないでしょうか。それは、何か特別なことをするのではなく、三位一体である主へ心を向ける生活、自分がいる所にイエス様の平安を保つ生活と言ってもいいのかも知れません。

 洗礼者ヨハネは、水で【悔い改め】のための洗礼を授けていましたが、イエス様の洗礼は【聖霊と火】で授けられます。今、洗礼の恵みを頂いている私たちは、この【聖霊と火】の洗礼を受けているのです。聖霊は、私たちの信仰生活を導いて豊かにしてくださいます。聖霊は、私たちがおん父から離れようとしている心を再びおん父に向けようとしてくださいます。【火】は、私たちの心を温め、おん父へと導く【灯り】となります。私たちが受けている【洗礼】は、おん父との生活に戻る【切符】と言ってもいいのかも知れません。

 イエス様は、その【切符】をもった私たちをおん父の所に連れて行ってくださるのです。今、私たちはイエス様のご誕生を準備しています。改めて、「悔い改めの心」をもち、イエス様に【切符】を渡すことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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