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これってどんな種?

子犬の願いという種 年間第20主日(マタイ15・21〜28)

 私は小学6年生の頃に麻疹の菌で盲腸炎になって入院したことがありました。手術によって盲腸を切り取ったのですが、同時に麻疹が身体中に回って手術後の痛みと麻疹でダブルの苦しみを味わったのです。その時、母親が私に「もしできるなら私が代わってあげるのにね」と言ってくれたのです。その言葉は、今でも忘れなずに母の愛を感じた言葉として残っています。

 きょうのみことばは、イエス様がカナンの女性の願いを聞き入れられる場面です。イエス様は、ガリラヤでエルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者の人と「食事の前に手を洗う」という律法について問答をして彼らを厳しく指摘し批判をしました(マタイ15・1〜20参照)。イエス様は、彼らの頑な心に対して「あなた方は自分たちの言い伝えによって、神の言葉を無にしている」(マタイ15・6)と言われて嘆かれます。

 きょうのみことばの始めには「イエスはそこを去って、ティルスとシドンの地方に退かれた」とあります。イエス様は、ファリサイ派の人々と律法学者たちとの問答や、彼らの信仰の無さに嘆かれ疲れ果てて、ガリラヤを去られ異邦人の土地である「ティルスとシドンの地方に退かれた」のでした。

 そのような時、その地方生まれのカナン人の女が現れ「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫んだのです。彼女は、イエス様と弟子たちがガリラヤから地中海の方に向かって北上していることに気づいて、彼らに近づいたのではないでしょうか。彼女は、イエス様のさまざまな教えや奇跡のことを知っていたのでしょう。ですから、彼女は、自分の娘を助けてくれるのはイエス様だけだと思って、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。……」と恥も外聞もなく叫び続けてイエス様と弟子たちの後ろからついてきたのです。

 きっと、イエス様の耳にも彼女の叫びが聞こえていたのでしょうが、イエス様は一言も答えられませんでした。イエス様は、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のためにしか遣わされていない」とありますように、異邦人のために遣わされていないので、本当は彼女の願いを聞き入れたいと思っていても、沈黙のまま道を進まれたのではないでしょうか。

 そのような思いをされているイエス様に弟子たちが「この女を追い返してください。後ろで、叫び続けています」と伝えます。弟子たちは、彼女の叫び声を聞き、イエス様の沈黙を不思議と思い、何とかして彼女の願いを聞き入れてほしいと思ったのでしょう。弟子たちの「追い返してください」という言葉は、ただ単に「追い返す」という意味ではなく、「彼女の苦しみから解放してください。彼女の願いを聞き入れてください」という意味があるようです。

 イエス様は、この弟子たちの言葉によって「わたしはイスラエルの家の失われた羊のためにしか遣わされていない」とようやく口を開かれます。彼女は、そのイエス様の言葉を聞き、イエス様のもとに来て、ひれ伏し「主よ、わたしをお助けください」と言います。彼女の気持ちは、「わたしを憐れんでください」からさらに強くなり「主よ、わたしをお助けください」へとイエス様の沈黙の間に変化していたのです。さらに、今まで後ろからついて来ていたのですが、イエス様の前に来て【ひれ伏し】ます。彼女は、イエス様の【アガペの愛】を感じ、きっと私を助けてくださると確信したのではないでしょうか。

 イエス様は、彼女の「わたしを助けてください」という言葉に「子供のパンを取り上げ、子犬に投げ与えるのは、よいことではない」と言われます。聖書の中で【犬】は、汚れた動物として扱われていましたし、異邦人を意味していたようです。ですから、イエス様が彼女に対して言われた【子犬】というのは、汚れた犬でさらに成犬ではなく、弱くて力がないものとして言われたのではないでしょうか。彼女は、そのように侮辱されても、諦めることなく「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑を食べます」と言います。彼女は、ユダヤ人たちから蔑まれている【異邦人】ということを謙遜に受け入れ、それでも娘を救いたいという強い思いでイエス様に懇願します。

 イエス様は、彼女のこの言葉を聞いて「婦人よ、あなたの信仰は立派だ……」と言って彼女の願いを聞き入れられます。パウロは「……わたしは異邦人のための使徒であればこそ、この奉仕を尊び、何とかして同胞に妬みを起こさせ、そのいく人かでも救おうとしています。」(ローマ11・13〜14)と言っています。イエス様が彼女の願いを聞き入れられたのは、おん父のご計画を忠実に実行されるためでした。イエス様のこの奇跡は、ただ単に彼女の娘を癒しただけではなく、異邦人の彼女を癒したことで、ユダヤ人に妬みを起こさせ主に立ち返らせるという目的があったようです。

 イエス様の「婦人よ……」という言葉は、彼女の耳にどのように響いたのでしょうか。彼女は、イエス様と関わりの中で、娘を思う気持ちから信仰が深められたのではないでしょうか。私たちは、もっとイエス様に懇願し「きっと聞き入れられる」という深い信仰へと変えていただくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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