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これってどんな種?

身をかがめてという種 四旬節第5主日(ヨハネ8・1〜11)

 私たちは、それぞれ大なり小なり自分の弱さからくる罪を犯しています。以前私は大きくて苦しい罪を犯したことがあったのですが、そのことで「ゆるしの秘跡」を頂いた時、その罪を犯すことから守られた、という大きなお恵みをいただきました。「ゆるしの秘跡」は、罪を赦されるだけではなく、【罪】から守ってくださるお恵みもいただけるのだと、その時感じたのです。

 きょうのみことばは、姦通の罪を犯した女性をイエス様がお赦しになる場面です。イエス様は、朝早くから神殿の境内にお入りになられると、教えを聞くために人々が集まってきました。イエス様は、そんな彼らのためにお座りになられ教え始めます。人々はイエス様が何を自分たちに教えてくださるのか興味津々だったことでしょう。

 そんな時に、律法学者とファリサイ派の人々が「姦通の現場で捕らえた女性」を連れてきたのです。彼らは、イエス様が人々に話すことを邪魔しただけでなく「先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。」というのです。当時のラビは、裁判官の役目もしていたようです。ですから、律法学者やファリサイ派の人々は、彼女を裁くためにイエス様の所に連れてきたのでしょう。

 もしかしたら、律法学者やファリサイ派の人々は、彼女が前々から姦通をしていることを知っていたのではいでしょうか。そして、いつかはその現場を押さえ、なおかつ「彼女を使ってイエス様を陥れる口実に使ってやろう」という計画を立てていたのかもしれません。彼らは、イエス様の所に偶然姦通の罪を犯している女性を連れてきたように見せかけながら、実は前々から用意周到にかつ陰湿な計画を立てていたのではないでしょうか。ここに、律法学者やファリサイ派の人々の恐ろしい執念を感じてしまいます。

 彼らはイエス様に「モーセは律法の中で、このような女は石を投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あなたはどう考えますか」と言います。ローマに支配されて以来のイスラエルでは、ユダヤ人たちによる「死刑の判決」はできなかったようです(ヨハネ18・31)。もし、イエス様が「石を投げて殺しなさい」と言えば、ローマの裁判権を奪ったことになりますし、「彼女を許しなさい」と言えば、モーセの律法に従わなかったと批判できるという二重の罠をイエス様に対してかけたのです。それに、イエス様がそれまで行ってきたさまざまな秘跡や教えを全て否定される、ということにもなりかねないのです。「もう、これでイエス様に侮辱されることはない」という律法学者やファリサイ派の人々の満悦の表情が浮かんできそうな場面です。

 イエス様は、彼らの訴えに対して何も言わずに身をかがめて、地面に何かを書き始められました。このイエス様の仕草には、「ローマの法廷で裁判官が判決を宣告する前に判決文のための覚書を書いたように、イエス様もそれに倣った」と考えられるようです。もしかしたら、これは、イエス様の優しさではないでしょうか。

 イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々が自分を陥れるための口実のために、彼女を利用しているということはご存知だったのでしょう。ですから、イエス様は、彼らが彼女を利用してまでご自分を陥れようとする悪意に気がつくように、と思われたのかもしれません。しかし、「彼らが執拗に問い続けるので」とあるように、イエス様の思いは、彼らに通じなかったようです。それでイエス様は身を起こされ、「あなた方のうち罪を犯したことがない人が、まずこの女に石を投げなさい」と言われ、再び身をかがめて地面に何か書かれます。この再び身をかがめられて書かれたのは、イエス様が彼らに「自分が犯した罪を振り返る時間」を作られたのかもしれません。彼らは、年長者から始まって、一人、また一人と立ち去っていきます。

 もう一つ、イエス様が【身をかがめる】というのには、姦通の罪で捕らえられた女性への【アガペの愛】があるのではないでしょうか。彼女の表情は、顔が真っ青になり、足は震え、「もう自分は石殺しにされる」と思って恐怖でいっぱいだったのではないでしょうか。また、「姦通の罪を犯してしまった」という後悔と、「もう決してしませんから、助けてください」という悲痛な心の祈りが彼女の中にあったのかもしれません。そのような彼女の気持ちをご存知だったイエス様は、彼女と同じ目線を合わせないように身をかがめられていたのでしょう。

 イエス様は、彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない」と言われます。彼女は、この言葉を聞いて緊張が緩みそこにうずくまり、安心と感謝でいっぱいになったのではないでしょうか。

 イエス様の「もう罪を犯してはならない」という言葉は、「もう、罪を犯さないですみますよ」という意味のようです。イエス様は、私たちの心からの【改悛】をご存知なので私たちが弱さから犯した罪を赦してくださいます。私たちは、このイエス様の【アガペの愛】に信頼して歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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