書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

信心のすすめ

アルベリオーネ神父の追憶(1)カルロ・ボアノ──信心のすすめ(36)

 聖パウロ修道会の創立者ヤコボ・アルベリオーネ神父を定義するのは、たしかにむずかしい。一般に、すべての聖人や、特に他のすべての創立者たちと同じように、彼は人間に共通な性格を持って人物であったが、人間の救いとその成果に関する特殊な神のご計画を実現するため、カリスマにみたされた人物であった。なぜなら、普通、救いと聖化が教会の共通聖職を通してもたらさせるものであるということが真実であるにせよ、また、聖霊はその性格から、内在的にわれわれが少しも創造していないようなうす暗い道を通して、人間の救いのために働くということが真実であるにせよ、時として、神が定めた時期に、救いと聖性は毎日、われわれのまわりで、見えない恩寵にみたされた人物たちによって、例外的にもたらされるということも前者におとらず真実だからである。

 旧約聖書では、これらの人々は預言者と呼ばれた。われわれはそれを使徒とか別の名前で呼んでいる。しかしそれは救いの特別な使命のために、神のみ手の中にある特殊な道具ということと同じことなのである。私は、ここで旧約と新約の預言者について述べようとは思わない。むしろ私は、アルベリオーネ神父の姿を少しでもわかろうと思えば、これらのことをまず念頭におかなければならないと思う。

 彼は人間として、すぐれた資質に恵まれていた。開かれた知性、旺盛な知恵をはじめ、記憶力がよく、要約するのが得意で、直観と応用、また商業的事柄にもすぐれていた。彼はずっと以前に起こったできごとや、何かつきあった人たちの名前なども、ずっとあとになってもおぼえていた。彼はまた、神学校の霊的指導者であったが、彼らとは長年会わなくても、神学生たちの性格や精神的、霊的状態をも記憶していた。商売上のことになると、商売人たちは、彼の才能におどろき、一度ならず次のように告白した。「もし注意していないと、アルベリオーネ神父はわれわれをまるめこんでしまう」と。

 彼は広く、多様な知識を持っていた。同じたやすさで、しかも直接、特別な準備もなく、いろいろ異なったことがらに専念することができた。ある教師が授業に出ることができなくなった時など、われわれはアルベリオーネ神父を呼びに行くのが常であった。彼はことのほか緊急な仕事がないかぎり、犠牲をはらっても授業に来たし、その授業を上手に、あたかも一週間前から準備したかのような調子で続けたものである。

 倫理神学、司牧神学、教会史、典礼、教会芸術……など、どれをとりあげたも、決して「準備するため、十五分待ってください」などとは言ったためしがなかった。いつも準備していた。勉強以外に、神学校時代、彼は非常に多くの本を読んだ。そしてそれは、最良の準備となっていたのである。実に、彼の頭脳はむずかしい問題を解決するのに向いていた。私はどのようにして、創立当時の特に困難な時代に、彼が多くのことがらを記憶していたかをわかることはできなかった。彼の事業のすべての重荷が彼の方にかかっていたときに。なぜなら、当時、だれも彼を助けるような人はいなかったからである。

 したがって、彼自身、すべてをしなければならなかった。たとえば、毎朝の説教(月の静修や年の黙想は除外しても)、告解(はじめのころは唯一の聴罪司祭だった)、霊的指導、会計、使徒職、時間割り、規則、修道会の発展に関すること、たとえば、会の建物の建築、印刷機械の購入、外部の人々との関係、そしていつもやさしくはない教会為施者との関係などがそれである。そのうえ、煉瓦づくりまで専念した。それは自分たちで煉瓦づくりをすれば、もっと安くできると考えたからである。しかも多くの煉瓦が必要であった。土地は煉瓦づくりに合っており、資材にはことかくことはなかった。そこで彼は煉瓦用のかまどをつくり、機械類を買い、おおよそ説明したのち、師イエズス修道女会に委託した。

 こうして、修道院と、特に、教会の建築のために役立つ煉瓦づくりがはじめられたのである。われわれ志願者も、時どき、特に煉瓦をかまどからとり出すために、その仕事を手伝うように呼びだされたものである。プリモ・マエストロ自身、共同体をじゃましないために、一人ずつ(われわれのグループはいつも十人から二十人いた)、夜明け前の二時頃、私たちを起こしに来ていた。そして、われわれが仕事に行ったあと、彼はわれわれのためにミサをささげていた。

 プリモ・マエストロは、いつもわれわれといっしょに来て、どのようにしたらよいか、どこから煉瓦を運んだらよいか、どのように煉瓦の山を築いたらよいかを教えてくれたものである。かまどの中は、いつも多くの灰燼があったので、彼はしばしば頭被いを使った。われわれの仲間の一人は、彼のためそれをさがして入手してあげたりした。われわれがのどがかわいた時など、彼は台所につめたい水とレモンをとりに行っていた。五時半頃、共同体の黙想とミサのために聖堂におりて行っていた。われわれは、軽い朝食をとり、日常生活にかえるまに、一時間ほど休みに行っていた。

 彼の偉大な意志の強さについては、何と言ったらよいだろうか!

 私が聖パウロ修道会に入会しようと決心したとき、私の小教区の主任司祭は反対であった。主任司祭は私を他の修道会、たとえばサレジオ会のように入会させようとしたのである。その理由は、当時、アルベリオーネ神父の事業は、教区の司祭たちからよい目で見られていなかったし、多くの反対があったからである。彼らは、、アルベリオーネ神父が印刷で商売をはじめるかのような印象を受け、また彼らの反感をもって彼をながめていたのである。

 彼が、これらの人々の無理解によって苦しんだのは、当然であった。なぜなら、彼は非常に感受性の強い人だったからである。しかしながら彼は、自分の使命と思われていたことを遂行しようと決めていた。そして、何ものも彼の考えを中断させ、変更させることはできなかった。彼が一つのことを実行しようと決定したとき、その考えをかえさせることはむずかしいことであった。そして全部、最後までやりとおしていた。彼のこの意欲的で権威的性格は、多くの人をして、あたかも彼が独裁的、もしくは、今日のことばでいえば、「ワン・マン」であるかのような印象を与えていた。これはたしかに、彼に近づいた人のだれもが受けていた印象であった。

 彼の死後イタリア国営テレビ放送で、アルベリオーネ神父は「現代で、もっとも偉大な『行動の人』の一人である」と定義された。行動の人であったことは、疑いのない事実である。なぜなら、聖パウロ会の存在は、その創立者がはじめた数多くの事業によって、それを証明するからである。

 ところで、行動の人、鉄のような意志なくしては、実現家たりえない。もし一つの創業をとりあげてみるなら、創立者は「ワン・マン」としての印象を与えずにはおかないものである。なぜなら、先頭に立って、一つの新しい道を案内しなければなければならないからである。それは、神の事業において特にそうである。そこで、創立者は神から受けた特殊なカリスマをよく使益し、また右にも左にも脱線しないように、神がカリスマに望むことを完全に遂行するために、常に心をくばったものである。

 彼の協力者たちは、たしかに助けられなければならなかったが、彼を完全に助ける段階に達していなかった。経験は、協力者たちがしばしば、しかも善意のうちにも方向をあやまってしまうということを教えてくれる。それと同じようなことが創立者の場合にも起こった。彼は矛盾に近いまでの頑固なその意志の力によって、彼の協力者たちに頭をかしげさせるということもあったのである。こうして、彼のそばにいた人々にとっても、全く好ましからざる状況をかもし出すこともあった。聖パウロ会のはじめの頃、使徒職には、指導方針のたえまなき変更があった。時には、福音と聖書に力が入れられたかと思うと、カテケジスに、また小説に、小教区の新聞にというふうに……。

 また、はじめの雑誌の性格に関しても同様であった。そこでは大きな変更さえあった。少しこうしなければならない、もう少しああする必要がある、というふうに、われわれはこう言っていたものだ。「どうして、こんなにもたえず変更があるのだろうか。はじめはうまくいっていたのに、今はうまくいかなくなった。どうしたらいいんだろう!」と。最初の司祭たちの中のある人は聖パウロ会を脱会した。それはまさに、アルベリオーネ神父との意見の相違に原因したものであった。(ある人はのちに、教区で大きな成功をおさめたのだが)。

 ところで、ここに考えるのだが、彼がわれわれの使徒職と神の意志を完全に遂行するために心をくばりながら、正しい道をさがしていたことは私には明らかである。たとえ、これらのたえまない変更は、われわれの気に入らなかったとしても、同様に、彼にとって、それは自分の道楽のためにしていたのではなかったのである。神のみむねを行なうということは、彼が大変心をくばっていたことである。そしてこのことは、われわれ志願者に与えられるあらゆる養成にも十分影響を及ぼしていた。

 彼の厳格さは、私たちに恐れられていた。何でも見通すような彼の視線は、われわれの考えさえも読みとおしているかのように思えた。彼のたえざる監視の目は、どこにも、どんなときにもいきとどいていた。そしてどんないたずらでも、わからずじまいになるということはなかったのである。われわれの大部分は、彼の言うことはすべて、霊感を受けた預言者のように、おそかれ早かれ明らかにされると信じていた。そして少し大げさかもしれないが、しかしアルベリオーネ神父は、共同体外をも魅惑する力を持っていたことは事実である。こうして一方では彼に対する恐れはあったが、他方では彼を愛していたし、また彼が要求することは何であれ実行する心構えがあった、なぜなら、われわれは、彼が父のようにわれわれを愛し、そしてわれわれの善だけをのぞんでいることがわかっていたからである。

 一九二八年の夏の夜のことである。私の属していたグループが、夕食後、郊外への半時間ばかりの散歩ののち変えるところであった。もう相当おそい時刻であった。われわれには係の神父も監督もついていなかった。われわれが師イエズス修道女会の近くの庭を横切っていたとき、小径伝いに、われわれを出迎えに来たプリモ・マエストロを見つけた。彼はゆっくりとした足どりで歩き、ふと立ちどまった。われわれは(いつもしていたように)彼をとりかこみ、何かことばをわれわれにかけるのを期待していた。実に、よい父親であったから、彼は語り、いつもわれわれに言うべきことがあった。彼は突然、会話を中断して、われわれの一人に、「マッジョリノ君、君は病気して死ぬと信じるかね。いや、君は、まだずっと遠くに行かねばならないよ」と言ったことばを思い出す。実際、われわれのあの伴侶は、司祭になり、ブラジルに派遣され、そこに長年にわたってとどまったのである。

 プリモ・マエストロは、自分が持っていたあらゆる心配とあらゆる仕事にもかかわらず、われわれの各自の小さな事柄にも心をくだかれた。その頃のわれわれの教室は、ちょうど彼のへやのま上にあった。そのへやは、彼の事務所と寝室であった。冬の夕方、外で遊ぶことのできないときなどは、夕食後、われわれは非常に騒がしく遊んだ。ある夕方のこと、プリモ・マエストロは、突然われわれの教室にやってきた。遊びはすぐ中断されてしまった。いつものようにわれわれは、彼が何か話すのを待った。すると彼はほほえみながら、「君たちが起こす騒騒しさでは、この下にいる私はどうして眠れましょうか。君たちが出しているすべてのビー玉の音を、私が数えているのを知っていますか」と言ったあと、他のことを話したのである。

 しかし私は、あれほどの騒音を、だまってたえるほどの忍耐をどのようにして持つことができたのかと、自問したのである。それは、彼が一回だけわれわれに対して不平をもらしてことであった。しかしわれわれは、その遊びの騒音をやめようとは少しも考えなかった。当時、われわれのうちだれもが、遊びにかけて自由奔放な少年たちのグループが起こしていた騒音のために、眠れないことは、何を意味するかを理解することはできなかった。しかし、ずっとあとになって、私がもはや東京(赤坂)にいたとき、彼は来日したのだが、その時、彼は私に一つのことを言った。そのことから私は、彼が少年たちの清純な活力と純粋さのために、もっとはげしい騒音を発するとき、まさに少年たちをどれほど愛していたかを理解することができたのである。

 1930年頃、私の父は相当重い病気にかかった。そこで私は、家庭を訪問する許可を受けた。私が聖パウロ会(アルバの)に帰ったとき、私は非常に心配し衝撃を受けた。私の父は病院に入院し、兄は兵隊に行ったため、家には、おばと母、小さな妹だけしか残っていなかったのである。それは夏であり、畑の仕事は急を要した。それで私は、父が回復するまで家にとどまる許可をプリモ・マエストロに願おうと考えていた。そして相当時間がかかるように思われた。プリモ・マエストロは聞いたのち、沈黙のうちに長いこと考え、頭をたれて私に言った。「よくなるにちがいないよ。君は、おとうさんのような立派な人になるように努力しなさい」と。

 私の父は数週間後退院した。少年たちの両親に対して、プリモ・マエストロは、特に、個人的に知ることができた場合には、特別な愛情を持ったものである。彼は両親たちを、もっとも大切な協力者と考えていたし、そのことを話すときには、神がご自分の奉仕に、一家庭の息子あるいは娘を呼ぶとき、その家庭が、その子どもを主に捧げたために苦しむことのないためにも、神ご自身、家庭の息子あるいは娘の場所を占められると言うのが常であった。

 私の父が死んだとき、私は来日していた。その時、私はプリモ・マエストロから手紙を生むとったが、その中には、「私は、あなたの聖なるおとうさんのためにミサを捧げました。私は二人の子どもを聖パウロに捧げてくれたおとうさんを、息子のように愛します」と書かれてあった。当然、われわれは、時として、強く、その愛情を取りかわしていた。実際、彼が、夕食後、庭にある聖母マリアのご像の前でわれわれに話している間に、神学生の中で一番力ある仲間が、彼のうしろに立って、急に彼をかつぎあげ、勝利者をかつぐように彼を方にのせたりした。プリモ・マエストロは、その仲間の耳をひっぱろうと懸命につとめ、ただちに自分をおろすように彼に命じたものである。一方われわれは、大声で叫び、手を打ちながら爆笑したものである。

 この愛情にみちた表現も、職務をよく遂行しない人や、特に満足することのない頑固な人、また、彼のあらゆる配慮に無関心であるとか、不満を示す人に対しては、プリモ・マエストロは、非常にきびしく、厳格であった。

 1926年1月14日、ジャッカルド神父が、一人の神学生と十二人の志願者とともにローマに出発した。これは母院から遠いところに、はじめての修道院を開設するためであった。ローマは国外ではなかったが、一つの屋根の下にいつも生活していた者にとって、このことは、アルバにのこるプリモ・マエストロにとっても、また出発するグループ、特にジャッカルド神父にとっても、悲しい離別であった。プリモ・マエストロはその出発に先立って、新しい分院のうえに聖師イエスの祝福を求めるために、聖堂で、儀式を行なうことを望んだ。あの寒い日の四時頃、畑の中にあった小聖堂は、物見高い、しかも心動かされた志願者と神学生でいっぱいであった。私は使徒業の時間で、機械(当時、私はモノタイプで働いていた)から離れることはできなかった。

 しかし、好奇心は私よりもずっと強かったので、ちょっと様子を見るために、聖堂に足を運んだ。聖体が荘厳に顕示されていて、プリモ・マエストロは出発する人々に向かって話しているところだった。何を語ったかは忘れてしまったが、彼が言いたかったことの全部を話し得なかったことだけは覚えている。そこで彼は、ジャッカルド神父を抱擁し、次にひざまずき、祝福を乞うた。私は急いで機械の所に帰った。数分後に、出発者のグループが私のへやの窓の下を通って行った。そして雪とぬかるみの道を駅の方に次第な遠ざかっていった。汽車は五時(頃)の出発であった。プリモ・マエストロは彼らに同伴したかった。この情況の中で、私は彼がどれほどの感受性を持っていたか、われわれに対する彼の愛情が、どれほど大きなものであったかを知ることができたのである。

 あの最初の出発の後、他の多くの出発が行なわれた。しかし、少なくとも私の知るかぎりでは、聖堂では儀式は行なわれなかった。というのは、プリモ・マエストロは、外面性をそれほど好まなかったためでもあった。しかし、あらゆる出発の中でも、多くの出発は、プリモ・マエストロにとっては、どちらかといえば、悲しいことであったということは疑いないことである。

 私が日本に出発した時、彼はローマのテルミニ駅まで私を同伴して来た。それは1938年8月4日のことだつた。夕食後、赤い自動車に荷物はつみこまれ、私は出発のため駅の正面にいたが、そのときプリモ・マエストロものぼって来た。私はとっては驚くべきことだあった。というも、彼が駅まで出発者に同伴する理由が私にはわからなかったからである。いずれにせよ、私は彼に、どうして私にそんなことをしたのかをたずねることはなかった。私は乗船のため、一日後、ブリンデイジに着いていなければならかった。あるところで、私は汽車をのりかえなければならなかったし、プリモ・マエストロはそのことを心配してくれた。なぜなら彼は、私がほとんど旅行をしたことがなかったので、旅行なれしていないのを知っていたからである。そこで彼は駅の構内まで来て、座席を捜してくれ、次に、近くに座っていた警官に助けを求めた。ちょうど彼もブリンデイジの方に行くところだった。プリモ・マエストロは、その警官に、汽車の乗りかえの駅についたら、私に教えてくれるようにと依頼してくれた。そして最後に私を抱擁し、汽車が出発する前に行ってしまった。

 アルベリオーネ神父は、たしかにわれわれを愛していた。だがそのために、私たちに対して厳格でなかったわけではない。むしろ、そのころこそ、彼は私たちの養成が、ダイナミックでエネルギッシュ、イエス・キリストの奴隷、そのため、休みなくまた力と疲れをおしみなく、よき戦いをひたぶるに戦った使徒パウロの模範にのっとり、堅固で完全なものであることを望んだのである。私がやる気なく、散心した様子で歩いているのを見て、「君が走るのを見たい」と言ったことがある。彼は、私たちの早寝早起きをのぞんでいた。普通、起床は五時であったが、夜の九時にはベッドについていなければならなかった。遊びに対しては反対ではなかったし、むしろ、志願者たちがほがらかに遊ぶのを見るのが楽しみであった。しかし、少なくともおとなは、レクレーションの時間を短縮するように強調していた。彼は次のように言うのが常であった。「私たちのレクレーションは注意力を変えることです」と。彼は、そのようにしていた。

 二度目の来日の折り、小西六会社の副社長が、彼への贈り物として写真機を私に持って来た。当然のこととして私は、それを彼に渡すことを喜こんで承知した。するとプリモ・マエストロは、私に答えて言った。「あなたは、写真をとりいろいろなところに行かないと思いますけれども」。するとプリモ・マエストロは、私に答えて言った。「ああ、私はいろいろなところに行きますよ、たしかに」。彼が写真機を何のために使ったかを知らない。

 しかし、彼は一回もそれを使わなかっただろうと私は考えている。彼は写真機で気晴らしをするようなタイプの人ではなかった。むしろ、私は彼がレクレーションをするのを見た記憶はないし、彼が何かの遊びをするのを知っていたのだろうかという疑問さえ起ってくる。たぶん彼は、十六ミリの撮映機を操作したり、テレビを調整したりすることも知らなかったのではなかろうか。大衆伝達の使徒職に献身する現代的な修道会の創立者であったにもかかわらず、彼は、個人的には、印刷技術をあまりわからなかった。彼は、ラジオ、映画、テレビに対する典型的な恐れを持っていたように思われるし、また、つとめて、映画撮影につきそっていたのである。

 いずれにせよ、プリモ・マエストロは、レクレーションのための自由時間を持たなかったし、われわれは、院の前で、あるいは廊下で、行き来して散歩する彼を見るとき、彼は祈っているか、あるいは重要な何事かを考えていることは非常に明白であった。時には、遊んでいるわれわれの間に来ていたが、ちょっとだけ、われわれの遊びを眺めるために足をとめていたにしても、すぐに多くの少年たちは、彼が何か言うことを期待して、彼を取り囲んでいたことは疑いないことであった。そのことは、まさに彼がのぞんでいたことであった。

 それは、われわれと接触し、われわれに話すためであり、われわれの間に来ていたのは、われわれの遊びを好奇心で見るためではなかったのである。われわれの方としては、彼が語ることを聞きたいと常に望んでいた。われわれは、アルベリオーネ神父の事業によって生まれつつあった新しい修道会の一部分であることを知っていた。そして私は、われわれの中に、創立者の口から、いつも何か新しいことや、われわれの存在の未来について興味あることを知りかつ聞きたいというのぞみ、否むしろ、いやすことのできない渇きがあったのは、すべて普通のことであり、当然なことであったと信じている。

1

2 3

RANKING

DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP