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信心のすすめ

アルベリオーネ神父の追憶(2)アンゼロ・マルゼリア──信心のすすめ(終)

 それは1910年の秋、10月のはじめごろであった。ブドウ畑では収穫が行われたいた。その年の収穫は豊作で、美しいブドウのふさがもぎとられ、喜びはひとしおであった。私も労働者の間で働き、もぎとられたばかりのブドウをかごいっぱいにして運んでいた。その時、私の内的衝動は、すぐにでも神学校に出発しようと、私を決定させてしまたのである。召命は、このようにして、最終的にあらわされた。数週間後、私はアルバの小さな神学校に入っていた。私がはじめて、若いアルベリオーネ神父に会う幸運をもったのは、その神学校でであった。その時から1915年まで私の霊的指導者であり、したがって、私は、彼のたましいの美しさをよりよく理解し、神が彼をとおしてなされた不思議な歩みを見る機会に恵まれたのである。

 小さな神学校のわれわれ志願者の間にあって、神学者(イル・テオロゴ。われわれはその頃、彼をこのように呼んでいた)は、聖人であったことを思い出す。われわれは、くちびるにほほえみを浮かべ、光りに照らされたようなかがやいた顔をした彼に、朝のはじめの休み時間に出会ったものだ。そのため、われわれは、神父がその夜、何かの特別な啓示を受けたにちがいないと、ささやきあったのである。

 彼は、しばしばわれわれに黙想を指導した。彼は、しばしばドン・ボスコについて語った。教室で、教壇から、自分のうしろの壁にかかっているドメニコ・サヴィオの絵を示しながら、ドン・ボスコの聖なる仲間の生涯をエピソードについて語ったが、そのエピソードは、しばしば黙想のテーマとなっていた。

 彼は、ある人が徳を守るにあたって、曖昧な態度をとっていることについて、非常にはげしく避難したことを私はおぼえている。彼は、悪魔との妥協を知らない聖人であった。

 私はしばしば彼の事務所をおとずれた。そして、決して忘れることのできないほどの会話を交わしていた。いろいろな会話のなかで、彼は幾度となく、良き出版による使徒職の計画について、私に語って聞かせた。そして一度は、聖パウロと教会の教父たちが書いた文章の数節を私に読ませたこともある。それらの書きものから、出版が社会にどれほどの重みを持っているかを教えてくれたのである。こうして、彼はわれわれに、この使徒職において働くというのぞみを植えつけていたのである。

 彼は当時から、修道生活を生きていた。ある日、私は彼に、その仕事のために、多くの資金を持っているかとたずねたことがある。すると彼は自分の机の引き出しを開け、いくつかの箱を私に見せた。それらの箱の上には、「カルメル信心会員」「小さなロザリオ会員」などといったその所有者の名前がしるされてあった。そしてその箱を持ちあげて、「これが私の宝ですが、私のものではありません」と言った。もはや彼は当時から清貧を生きていたのだ。そしてのちになって、彼はその子らに、清貧をくりかえし教え、彼自身、神の摂理に絶対的な信頼をよせていたのである。

 1914年、ケラスカで、その事業をはじめたとき、私は小さな印刷所にいた。私は彼がどれほど正確に、もはや将来、全世界に広まったかのように、その仕事に着手したかをおぼえている。

 ある日、私は彼といっしょに、アルバの沿道を歩いていた。われわれは宣教について語っていた。私は彼に、宣教地の行きたいと語った。すると、彼は私に全世界が、われわれののぞむままに、その場所であることを強調した。そして世界の首都が、自分の使徒職の射程内にあることを語ったのである。

 1915年6月の終わり頃、私は神学校を去り、神父が最初の志願者を集めたモンカレットに移転した。そこから毎日、市場の広場に近い印刷所に通っていた。機械を動かし、みんな熱心に燃えていた。われわれも彼とともに、一団となって生活していたし、他の無駄な考えをわれわれは持っていなかった。しかし神父は、われわれがたんに労働者学生である以上に、著述の宣教にもなれることを望んでいた。こういった雰囲気の中で、神父は『ガゼッタ・ダアレバ』紙にのせる記事をのぞんだため、私はいくつかの記事を書いたこともある。しかし、主は私を他のところへ移すことをのぞんだのである。

 ある朝、私のおばといっしょに母が、モンカレットにやって来た。彼らは小さな手押車を押したポーターといっしょにやって来たのである。その意図は、私の荷物をつみ、私をつれもどすためであることは、あまりにも明白なことであった。しかし、どのような理由だったのか……。

 聖ヨハネ・ボスコの生涯の中で、一時は、気違い、狂信者のようにあつかわれたことが語られている。アルベリオーネ神父もそうであったのだ。私のおばは、そこらで聞いたことを、連祷のようにくりかえしたものである。「アルベリオーネ神父は、気違いで、心酔者で、ペテン師だ」と。当然、私はおばに反対したし、われわれは、おばがちがった考えを持っていると強調した。しかし彼女も私の母も、私のことばを聞きたくなかったようである。わたしどうしたらよいか神父にたずねた。しかし彼も何もいうことをのぞまなかった。この時、私は、彼がどれほど個人の自主性を尊重し、神の摂理に信頼していたかを知って、深く感動したのである。彼は、人びとと神と関係あることのみに興味があったのだ。私は、私の荷物を積み込んでいた母とおばについて行った。こうして私は、モンティチェルロの方に向かったのである。

 数日後、デ・ジャコミ神父が、私の家の前を通りかかり、私を見つけ、家に入ってきた。事の始終を知りたかったのである。彼は私にこうたずねた。「ほんとうに、神父になりたいのかね」と。答えは肯定的であったので、彼は、翌日に会うことを約束した。そして、約束の日、私をトリノにうるヴァルドッコのサレジオ会につれて行った。すぐさま入会が許された。

 その年の秋、アレベラ神父の手により着衣を受けた、私は事のなりゆきをアルベリオーネ神父に報告した。次にかかげる手紙は、私がアルベリオーネ神父から受けた数多くの手紙の中で幸いにも、今日まで保存していたものの一つである。

+イエス、マリア、ヨゼフ
 愛する友よ、
 君に会えなかったのは残念です。しかし、主が、君に与えてくださったお恵みについて、私が喜んでいることを、君はよくわかってくれるでしょう。
 君は聖職者的、サレジオ会的精神を着たいとのぞんでいたので、神と人びとの前で受けた修道服を、より大きな義務を負ったと考えなさい。私たちは、君と君の家庭のあらゆる必要事のために祈ります。
 どうか、君のこの貧しい友のためにも祈ってください。
 もし他の大きな生涯がなければ、クリスマス後に、念願の時がはじまるでしょう。
 聖パウロ会の事業は、これまで主に祝福されています。しかし困難もありますが、その中でも一番大きなものは、私なのです。
 謙遜でありなさい。決して高慢になってはなりません。主の導きに身をまかせなさい。
 これは、いつもよき修道生活の一つの基礎です。
 あいさつと接吻を送ります。
 君の友であるアルベリオーネ神父
 1915年12月11日

 数年後、私はサレジオ会をやめて、彼のところに帰りたいとの考えをもったとき、彼に一回手紙を書いたことがある。しかし彼は、現在のところにとどまるようにと言って、私を思いとどまらせた。

 私は彼といつも関係を保ち、私は生まれ故郷アルバやローマにおもむく時、しばしば彼に会った。アルバでは、ある時、パテがとれた窓をながめている彼に会った。彼はそれ以外に何もすることもないかのように働いていた。われわれはいろいろなことを雑談した。いろいろの中で、私は彼に、聖体礼拝の時間を、あまりにも長くとりすぎているようだ、と言うと、彼は、まさにその時間こそ、最も大切な時間と考えており、その礼拝こそ、使徒的活動にとって、すべてにまさって価値のあるものである、と答えた。

 私が最後に彼に会ったのは、ローマの『聖師イエスの家』でであった。彼は私に会えたことを非常に喜び、いただいた恵みを神に感謝していた。

 今、私は彼の共保護者に選び、私に必要なことがあると、彼が必ず取り次いでくださると確信をもって、毎日、祈り願っている。主が少しでも早く、われわれが彼に公的に祈ることができるようにしてくださいますように。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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